増尾村(読み)ますおむら

日本歴史地名大系 「増尾村」の解説

増尾村
ますおむら

[現在地名]柏市増尾・加賀かが一―三丁目・中原なかはら一―二丁目・増尾台ますおだい一―四丁目など

名戸など村の南、大津おおつ左岸の台地上に位置し、南は支谷を挟んで藤心ふじごころ村・逆井さかさい村。「まそう」ともいった(元禄一三年頃の下総国各村級分)。大津川沿いの低地に舌状に突き出た台地の突端、字宮根みやねには鎌倉時代の社殿創建を伝える広幡ひろはた八幡宮があり、同宮の境内に重なる宮根遺跡では縄文時代・弥生時代の遺跡が重層的にみられる。中世には相馬そうま御厨のうち。

〔中世〕

年未詳の某嘆願状(相馬文書、以下断りのない限り同文書)によれば、相馬胤村の後家分として配分を要請した五ヵ村の一つに「増尾」があった。この要請に基づき、文永九年(一二七二)幕府は後家尼阿蓮に増尾村および陸奥国盤崎はんさき小高おだか(現福島県小高町)両村を配分、安堵した(一〇月二九日関東下知状)。弘安八年(一二八五)六月五日、尼阿蓮は「ますをのむら」を嫡子相馬師胤に譲与、もともと増尾村は「ねこまやさ(夜叉)」の出家をとどめるため同女に譲与した地であったが、同女が出家したために悔返し、改めて師胤に譲与したのである。その際、村内「けんへいにうたう(入道)ふん三郎かやしきつきの(田)とも□三ちやう」は師胤の兄弟胤実に譲与されたが、このことがその後の一族相論のきっかけとなった(阿蓮譲状)


増尾村
ますおむら

[現在地名]小川町増尾

腰越こしごえ村の北東つき川の左岸に位置する。北は大塚おおつか村・飯田いいだ村。古くは猿尾と記し、貞享四年(一六八七)増尾に改めたという。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。村の中央を川越秩父道がほぼ東西に通り、街村を形成する。文永六年(一二六九)仙覚は「武蔵国比企北方麻師宇郷」において「万葉集註釈」を著しているが、この麻師宇ましう郷は当地一帯に比定される。検地は慶長二年(一五九七)大久保石見守によって実施されたと伝える(風土記稿)。田園簿では猿尾村とみえ、田高二二石余・畑高二七石余、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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