鎌倉時代の僧,権律師。宗門は天台宗か。優れた万葉学者として知られた。常陸国の生れと思われるが,主として鎌倉に住み,また武蔵国比企郡にいたこともある。1272年(文永9)まで生存していたことはわかるが,没年は不明。彼の万葉集研究は,(1)本文の校定,(2)訓点,(3)注釈に分かれる。(1)1246年(寛元4)彼が44歳のときの寛元本と,66年(文永3)64歳のときの文永本との2回にわたり,後者は前回に見られなかった諸本をも校合(きようごう)して正確度を増し,現存の完本は皆この両本から出ている。(2)1246年はまた従来無訓のままであった152首の歌に新点を加えた年でもあるが,その後も改訓に努め,文永本はそれらを集大成している。(3)1269年に《万葉集註釈》(《仙覚抄》)を著し,《万葉集》の名義や成立を論じるとともに,811首の歌について注釈を加えた。彼の学風は合理優先,独断を極力避ける科学的態度を貫いているといってよい。
執筆者:木下 正俊
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鎌倉時代の万葉学者。常陸(ひたち)国(茨城県)に生まれ、関東に住む。1272年(文永9)に70歳で生存していた。天台宗の僧であったらしい。13歳で『万葉集』の研究に志し、中世の万葉研究を大成した。おもな業績は次の4点に要約される。(1)校訂本の作成。(2)前記(1)によって従来の無訓歌152首を抄出し訓点(新点)を加えた。ここで『万葉集』の歌はすべて訓がつけられた。(3)『万葉集註釈(ちゅうしゃく)』10巻(仙覚抄とも)を撰(せん)し800首余りを注釈した。(4)書名、時代、撰者、用字などの考証的研究((3)の巻第一および仙覚奏覧状)。その研究は平安時代以来の基礎的な面を継承しつつも、文献を重んずる厳正な実証性に貫かれ、学問研究の名に値する画期的なものであり、近世の契沖(けいちゅう)らに大きな影響を与えた。
[橋本達雄]
(田渕句美子)
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1203~?
鎌倉時代の万葉学者。天台宗僧。常陸国生れ。少年期から「万葉集」に親しみ,鎌倉での数次にわたる校勘(こうかん)をへて寛元本(1247)や文永本(1266)などの校訂本を作成。その間,1246年(寛元4)に古点・次点時代の無点歌152首に訓点を施した新点を試み,53年(建長5)には新点抄に奏状をそえた「仙覚律師奏覧状」を後嵯峨上皇に献上。69年(文永6)には武蔵国で「万葉集註釈」(「仙覚抄」)を完成。本文面では新点の案出および多くの証本を用いたこと,注釈面ではインドの音声学(悉曇(しったん)学)の知識を応用した用字法分析や音義学的語義分析,道理(論理),文証(文献)による釈義を試みた点に意義がある。「続古今集」以下に入集。
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