多賀谷重経 (たがやしげつね)
生没年:1558-1618(永禄1-元和4)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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多賀谷重経
没年:元和4.11.9(1618.12.25)
生年:永禄1(1558)
戦国・安土桃山時代の武将。常陸国下妻城(茨城県下妻市)城主。政経の子。初名は尊経。下総守,修理大夫に任じ,道雨と号す。戦国末期,結城・佐竹両氏と目下の同盟関係を結び,常陸西部,下総北東部に領土を拡大,常陸牛久の岡見氏らを圧迫した。政局を見る目は鋭く,巧みな政治手腕で多賀谷氏の最盛期を築くが,豊臣政権下で結城・佐竹両氏との両属関係を否定され,実子三経を結城氏に,養嗣子宣家(佐竹義宣の弟)を佐竹氏に付けて下妻城に隠居。慶長7(1602)年,宣家が兄義宣に従い出羽へ移ると,浪人して各地を放浪,近江彦根で死去した。<参考文献>『関城町史』通史編上
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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多賀谷重経 たがや-しげつね
1558-1618 織豊時代の武将。
弘治(こうじ)4年2月23日生まれ。多賀谷政経(まさつね)の子。天正(てんしょう)4年父の跡をつぎ常陸(ひたち)(茨城県)下妻城主となる。佐竹義重とむすんで領地を拡大したが,豊臣秀吉に所領6万石のみ安堵(あんど)される。関ケ原の戦いに際し,下野(しもつけ)(栃木県)小山で徳川家康襲撃をくわだてるが失敗し,所領を没収された。元和(げんな)4年11月9日死去。61歳。名ははじめ尊経。通称は大二郎,修理大夫。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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多賀谷重経 (たがやしげつね)
生年月日:1558年2月23日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1618年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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