下妻城(読み)しもつまじょう

日本の城がわかる事典 「下妻城」の解説

しもつまじょう【下妻城】

茨城県下妻市にあった平城(ひらじろ)。戦国時代の多賀谷氏の居城。東の小貝川、西の鬼怒川、北の大宝沼と三方水域を配した天然の要害だった。1454年(享徳3)、金子(多賀谷)高経は鎌倉公方と対立していた関東管領の上杉憲忠の首級をあげたことから、足利成氏(鎌倉公方)から下妻33郷を与えられた。高経は堀戸氏から関城(筑西市)を奪って居城としていたが、高経の子家稙は1455年(康正1)ごろ、新たに下妻城を築いて本城とした。多賀谷氏は結城氏の重臣で、山川城主の山川氏、下館城主の水谷氏、岩松城主の岩松氏とともに結城四天王とも呼ばれた時期もあったが、主家結城家への離反や独立をはかるなど、独自の行動をとることも多かった。1560年(永禄3)、城主の多賀谷政経は結城晴朝から離反。以後、独立色を強め、北方の佐竹氏と同盟して反北条陣営の一員として勢力を広げ、小田氏を攻めて常陸西南部から下総にかけて領地を拡張し、20万石に達した。1590年(天正18)の小田原の役では、城主の多賀谷重経は豊臣秀吉の石垣山城に参陣して下妻6万石を安堵されたが、結城氏の臣下として組み込まれることになった。文禄の役(秀吉朝鮮出兵)に病気を理由に出陣しなかったことから、秀吉から所領の大半の没収と下妻城の破却を命じられ、関ヶ原の戦いでは西軍に荷担して会津へ向かう徳川家康本陣への夜襲を画策したが露見し、改易となった。1606年(慶長11)、徳川頼房(家康の十一男)が十万石で下妻城に封じられたが、1609年(慶長14)に水戸城へ移封となり、水戸藩の初代藩主となった。その後、結城秀康次男の松平忠昌松平定綱が城主になった後、天領(幕府直轄領)となり、のちに井上氏が入封した。井上氏は陣屋を築いたが、この陣屋は下妻城と違う場所である。以後、井上氏が代々領主をつとめて明治に至った。現在、城域のほとんどは市街地、住宅街になっており、下妻市役所前の多賀谷城址公園に土塁の一部がわずかに残るだけになっている。関東鉄道常総線下妻駅から徒歩約3分。◇多賀谷城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報