大ヶ塚村(読み)だいがつかむら

日本歴史地名大系 「大ヶ塚村」の解説

大ヶ塚村
だいがつかむら

[現在地名]河南町大ヶ塚

一須賀いちすか村の南にあり、うめ川が東の村境を北流する。南へ金剛山参りの金剛山こごせ道、東部山地からの大ヶ塚道、一須賀村の東部丘陵を越えて葉室はむろ(現太子町)から竹内たけのうち街道へ通ずる鐘芝越などの分岐点で、西方の石川の舟運によって大坂へ通じた。南北朝内乱期の古城跡と伝えられるものに大ヶ塚城跡がある。一須賀の壱須何いちすか神社境内近くにあった北城と大ヶ塚小学校の地にあった南城の二城からなる。正平一四年(一三五九)一二月後村上天皇が行宮を観心かんしん(現河内長野市)に移した時に、楠木正儀上山うやま城を築いたことがあったが、この上山城は大ヶ塚の南城であったと推定されている(大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告)。いずれも楠木氏一族によって築かれ維持されたものといわれる。四条縄手合戦の後、東条を攻めた高師泰が石川に城を築き、貞和五年(一三四九)四月二六日には同城から長野ながの(現河内長野市)への発向が行われている(同年八月一一日「多田院御家人森本為時軍忠状」彰考館蔵集古文書)。また観応元年(一三五〇)一一月二一日、高師直・師泰に敵対し兄足利尊氏と袂を分った足利直義が、有力幕臣畠山国清が拠っていた河内国石川城に入って、南朝合体の動きをとったことがある(田代文書・園太暦)。それより先一一月三日に足利直義が発した師直・師泰誅伐軍集結の御教書は畠山国清のもとに届き、国清はいち早くそれを河内・和泉国内の武士に伝えていたとみえて、直義が石川城入城直後に和泉国大鳥郡の武士田代了賢が石川城に出頭している(田代文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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