大井郷(読み)おおいごう

日本歴史地名大系 「大井郷」の解説

大井郷
おおいごう

現品川区の大井地区を中心に、南は大田区の旧不入斗いりやまず地区、西は目黒区の碑文谷ひもんや地区までの広がりをもつ中世の郷。立会たちあい川が流れ、碑文谷はその最上流域である。大井郷の領主紀氏姓大井氏(→品川は、一二世紀の後半に六郷ろくごう保の一部を形成する大杜おおもり(大森)郷・永富ながとみ(現大田区)を本領としてこの地に根付いたものと考えられる(元久元年一二月七日「大井実春譲状案」大井文書)。大井氏はこれ以降、六郷保と立会川流域の大井の地を中心に開発を進めたものとみられ、建治元年(一二七五)京都左女牛西洞院さめうしにしのとういん(現京都市下京区)の六条八幡宮(現同市東山区若宮八幡宮社)造営用途の配分が定められた際、「大井人々」に八貫文の賦課が決められており、大井氏が幕府の御家人として位置付けられていたことがわかる(同年五月日「六条八幡宮造営注文」国立歴史民俗博物館蔵)


大井郷
おおいごう

和名抄」東急本は「於保井」と訓を付し、高山寺本は訓を欠く。現中巨摩郡甲西こうさい町のうち江原えばら下宮地しもみやじ鮎沢あゆざわ古市場ふるいちばは、明治八年(一八七五)合併して大井村を称した。「延喜式神名帳記載の巨麻こま郡「神部カムヘノ神社」は、下宮地に鎮座する神部かんべ神社(三輪明神)に当てられる。郷名はその南東に位置する江原浅間えばらせんげん神社の湧泉池、御手洗みたらし池から起こったのではないかといわれる(甲西町誌)。郷域は「甲斐国志」が加賀美かがみ(現若草町)以南、黒沢くろさわ(現市川大門町)鰍沢かじかざわ(現鰍沢町)以北とするように、甲西町を中心に北は中巨摩郡櫛形くしがた町・若草わかくさ町の一部から南は南巨摩郡増穂ますほ町・鰍沢町までを想定するのが通説である。


大井郷
おおいごう

「和名抄」所載の郷で、東急本では於保井とする。平城京(二条大路大溝)跡出土木簡に「安房国大井郷小野里戸主城部忍麻呂戸城部稲麻呂輸鰒調六斤六十条 天平七年十月」「安房国安房郡大井郷小野里戸主矢作部真刀良輸鰒調陸斤伍拾弐条天平七年十月」「安房国安房郡大井郷大嶋里矢作部□乎戸矢作 調陸斤 年十月」と記された三点がある。郡郷里制下の当郷に小野里・大嶋里があり、城部や矢作部の部姓をもつ戸主や戸口がおり、天平七年(七三五)一〇月に調鰒を貢納していたことが知られる。当郷の所在地は地名から「大日本地名辞書」は現館山市大井とする。「日本地理志料」は「安房国誌」を引いて同市大井・水玉みずたまその安東あんどうから稲村いなむら広瀬ひろせ腰越こしごえ江田えだ竹原たけわらなどの広範囲にわたる地域に比定している。


大井郷
おおいごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「大井」と記し、訓を欠く。しかし、筑摩つかま郡の大井郷は流布本に「於保井」と訓じているので「おほい」と称していたことに間違いなかろう。

「信濃地名考」は「大井廃して岩村田の駅あり、東鑑大井庄八条院御領云々」とし、現佐久市岩村田いわむらだを中心とする一帯の地とする。「日本地理志料」もこれに従い、「按図亘岩村田・東和田・西和田・長土呂・御影・赤岩・平塚・根ノ井・猿久保・横和・三河田・今井・岩尾諸邑、称大井即其地也」と想定している。「大日本地名辞書」も大体これと同じだが、その郷域を更に広く考え「今、岩村田町、平根(平尾・横根)、三井などの地なるべし。


大井郷
おおいごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「大井」と記し、訓を欠く。いつき灘に注ぐ宮脇みやわき川・山之内やまのうち川流域に開ける地域に比定される。現越智おち大西おおにし町の大半を含み、同町大井浜おおいはまはその遺称である。同町西端の別府べふも応永七年(一四〇〇)七月付の河野通之安堵状(越智文書)に「伊予国大井郷塩別府清林寺田畠事」とあり、大井郷内にあったことが知られる。応長二年(一三一二)三月日の大山祇神社々殿造営段米奉納状(大山積神社文書)に「大井郷 八石一斗八升三合四勺」とあり、また貞和三年(一三四七)一〇月日付税所免田注進状案(国分寺文書)の末尾に、「目代知行所 十五ケ名 領家 大浜領家 大井郷領家 朝倉郷領家 三嶋浦戸領家等歟」とある。


大井郷
おおいごう

「愚管記」貞治六年(一三六七)一一月一六日条に「遠山庄内大井郷」とみえ、安居院行知の知行地であったが、この日後光厳天皇により没収され、他人に宛行われた。応永元年(一三九四)一二月一九日、近衛家領となっていた大井庄は、故仲信が奉行していたが、将軍足利義満の口入により広橋仲光(兼宣の父)が奉行することとなった(兼宣公記)。長禄四年(一四六〇)九月二八日、京都天龍寺香厳院領の遠山とおやま庄大井郷の別当職に幕府奉行人飯尾之清が補任された。


大井郷
おおいごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。天平一七年(七四五)一〇月相馬郡大井郷の戸主矢作部麻呂が調庸布一端を貢納している(「正倉院調庸関係両口布袋銘文」正倉院宝物銘文集成)。また同戸主矢作部弟戸口の矢作部広足も同様に貢進している(同銘文)。天平宝字六年(七六二)当時、大井郷の戸主矢作広万呂の戸口矢作真足が石山院奉写大般若経所に仕丁として出仕しており、一二月には任務を終えて造東大寺司に返却されている(六月二一日「造石山院所公文案」・一二月二四日「奉写石山大般若経所解」正倉院文書など)。平将門は下総国亭南を王城とし、また相馬郡大井津をその京の大津にするという構想であったという(「将門記」、「今昔物語集」巻二五)


大井郷
おおいごう

「和名抄」高山寺本は「本井」、東急本は「大井」に作る。「吾妻鏡」などにみえる大井戸おおいどの渡、同書建久元年(一一九〇)四月一九日条にみえる大井戸加納、「蔭涼軒日録」寛正六年(一四六五)二月二九日条にみえる大井戸郷などから大井郷とする。中世の大井戸は当郷の名を継承したものと考えられるが、大井戸の渡は現可児市土田どた地区のわたり付近、大井戸郷も土田地区とされることから、当郷も一般に郡の北西端で、可児川が木曾川に合流する土田地区に比定される(「新撰美濃志」「濃飛両国通史」「日本地理志料」など)


大井郷
おおいごう

「和名抄」高山寺本に「大井」と記し訓読を欠く。流布本に「於保井」とあるので、「おほい」と称していたことは明らかである。大井は大堰(おおい)で、大きな堰の開発があったところを意味することから、現松本市内の西部(旧にい村・島立しまだち村方面)からあずさ川の上流にさかのぼって現東筑摩郡波田はた町・和田わだ(現松本市)方面までに及んでいたのではないかと想定する説(東筑摩郡・松本市・塩尻市誌)、現松本市の西南、旧今井いまい村・和田村方面であるという説(日本地理志料)とがあるが、「諸寺縁起集」に、推古天皇三年に四天王寺領として「信濃国筑摩郡荒田郷五十烟」が施入されたとの伝承を載せており、その荒田郷とは大井郷の原初の称呼であることが想定されるので、ほぼ現松本市の西部地域とみてよいかと考える。


大井郷
おおいごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「於保井」の訓がある。比定地は現清水市大内おおうち押切おしきり能島のうじま石川いしかわ付近などとする説(駿河志料)、大井の地名は泉や井戸の所在と関連することから現清水市有東坂うとうざか今泉いまいずみ付近とする説(静岡県史)がある。


大井郷
おおいごう

「和名抄」に「大井」と記され、訓を欠く。正倉院宝物の白布に天平宝字元年(七五七)一〇月として「常陸国那賀郡大井郷戸主宇治部花麿戸宇治部□□調曝布壱端」と、当郷からの貢調が記される。また「三代実録」貞観七年(八六五)一二月二五日条などにみえる大井神社は式内社である(水戸市の→大井神社。「新編常陸国誌」に「風土記倭名鈔ニヨリテ地図ヲ按ズルニ、コノ郷東北ハ久慈郡倭文郷、及本郡河内郷ニ接シ、西南ハ那珂川ニ至テ限トス」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現那珂郡那珂町下江戸しもえど大内おおうち田崎たさき、水戸市上国井かみくにい町・下国井町・田谷たや町の一帯とされる。


大井郷
おおいごう

「和名抄」諸本に訓はないが、同書に多くみえる同名郷の読みから「オオイ」と考えられる。備中川の支流せき川流域の段丘面一帯、現真庭まにわ落合おちあい町関付近に比定される。推定郷域内の落合町一色の下一色いしきのしもいしき二号墳から瓦当文陶棺が出土している。陶棺は大型破片三個と小破片若干からなるが、四注式家形と推定されている。


大井郷
おおいごう

「和名抄」高山寺本に「於保為」、東急本に「於保井」の訓がある。郷域は現岡山市大井・粟井あわい上高田かみたかた・下高田・日近ひぢかいを中心とした地域であろう。天平一一年(七三九)備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)に、田後里の戸主生部首加都良が一二六束、粟井里の戸東漢人部刀良手が一〇束の大税を負って死亡したとある。平城宮跡から木簡「(表)大井鍬十口」「(裏)九月十日」が出土している。


大井郷
おおいごう

現虎姫町大井の辺りを中心に広がっていた郷。古代浅井郡大井郷(和名抄)に由来する。大井郷北方・南方のほかに大井郷西方も史料上にみえ、西の村が大井郷西方として郷内に含まれていたらしい。康正元年(一四五五)一二月二七日の足利義政御教書(南部文書)によれば「大井郷西方」が小串次郎左衛門尉成行に安堵されており、康正二年三月一八日には、山城石清水いわしみず八幡宮領「大井北方」が入江検校法印鳳清に与えられている(石清水文書)


大井郷
おおいごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に大井とあるが、東急本・元和古活字本は太井とする。諸本ともに訓を欠くが、大井はオオイであろう。「日本地理志料」は大井を用水を分ける関と考え、現美里みさと町のせきにあてる。


大井郷
おおいごう

「和名抄」刊本・高山寺本ともに「大井」と記すが、高山寺本は山本郡に属すとする。「大日本地名辞書」では、山川やまかわ郷の南、皆瀬みなせ川・雄物川合流点以北、現平鹿町の大部分、現平鹿郡十文字町・増田町に比定する。「日本地理志料」ではさらに現横手市の西部と現平鹿郡大雄たいゆう村の一部をも含めた地域に比定している。


大井郷
おおいごう

「和名抄」東急本は「於保井」と訓を付し、高山寺本は訓を欠く。武蔵国分寺跡(現東京都国分寺市)より出土の瓦に「大井郷」「大井」と型押ししたり、あるいは篦書したものがある。また藤原宮跡出土の木簡に「久良□郡大井□里」とあり、中央とのかかわりも推測される。


大井郷
おおいごう

「和名抄」東急本は「於保井」(オホイ)と訓ずる。秦氏が大堰を築いたところからついた郷名という「東浅井郡志」の説は誤り。「釈家官班記」に「良源、諡号慈恵和尚、延暦寺座主、近江国浅井郡大井郷人」とあるように、延暦寺の寺勢を拡大した僧良源の出生地として知られる。


大井郷
おおいごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」「大日本地名辞書」では北上川東岸の現水沢市東部の地とする。しかし同地は中世まで胆沢いさわ郡に所属し、同地の水沢市黒石くろいし町に鎮座する岩手堰いわてい神社は、「延喜式」神名帳にみえる胆沢郡七座のうちの石手堰神社に比定されるため、比定地になりえない。


大井郷
おおいごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。吉井川支流の久米川・宮部みやべ川流域の段丘面、明治二二年(一八八九)成立の大井西おおいにし村に含まれる、現久米郡久米町中北下なかぎたしも一帯と考えられる。


大井郷
おおいごう

「和名抄」には記載がない。訓は諸国の例からオオイであろう。平城宮跡出土木簡に「隠伎国智夫郡大井郷」とあり、各田部小足が軍布六斤を貢進している。なお平城京二条大路跡出土木簡に智夫郡大結郷がみえ、これをオオユイとよんだ場合オオイに近いので、あるいは同一の郷の可能性がある。


大井郷
おおいごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠くが、同書所載の他の大井郷の訓に準じて「おおい」と読んでおく。「下野国誌」「大日本史」は現那須町西部に想定する。


大井郷
おおいごう

「和名抄」東急本にみえる郷名。同本に「於保井」の訓がある。廬原いおはら郡にも同名郷がある。「日本地理志料」は大井は堰頭の意で、堰は井・猪に通じるとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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