日本歴史地名大系 「大井郷」の解説
大井郷
おおいごう
- 東京都:品川区
- 大井郷
現品川区の大井地区を中心に、南は大田区の旧
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
「和名抄」所載の郷で、東急本では於保井とする。平城京(二条大路大溝)跡出土木簡に「安房国大井郷小野里戸主城部忍麻呂戸城部稲麻呂輸鰒調六斤六十条 天平七年十月」「安房国安房郡大井郷小野里戸主矢作部真刀良輸鰒調陸斤伍拾弐条天平七年十月」「安房国安房郡大井郷大嶋里矢作部□乎戸矢作 調陸斤 年十月」と記された三点がある。郡郷里制下の当郷に小野里・大嶋里があり、城部や矢作部の部姓をもつ戸主や戸口がおり、天平七年(七三五)一〇月に調鰒を貢納していたことが知られる。当郷の所在地は地名から「大日本地名辞書」は現館山市大井とする。「日本地理志料」は「安房国誌」を引いて同市大井・
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「大井」と記し、訓を欠く。
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。天平一七年(七四五)一〇月相馬郡大井郷の戸主矢作部麻呂が調庸布一端を貢納している(「正倉院調庸関係両口布袋銘文」正倉院宝物銘文集成)。また同戸主矢作部弟戸口の矢作部広足も同様に貢進している(同銘文)。天平宝字六年(七六二)当時、大井郷の戸主矢作広万呂の戸口矢作真足が石山院奉写大般若経所に仕丁として出仕しており、一二月には任務を終えて造東大寺司に返却されている(六月二一日「造石山院所公文案」・一二月二四日「奉写石山大般若経所解」正倉院文書など)。平将門は下総国亭南を王城とし、また相馬郡大井津をその京の大津にするという構想であったという(「将門記」、「今昔物語集」巻二五)。
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
「和名抄」高山寺本に「大井」と記し訓読を欠く。流布本に「於保井」とあるので、「おほい」と称していたことは明らかである。大井は大堰(おおい)で、大きな堰の開発があったところを意味することから、現松本市内の西部(旧
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
大井郷
おおいごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報