大伴古麻呂(読み)おおとものこまろ

改訂新版 世界大百科事典 「大伴古麻呂」の意味・わかりやすい解説

大伴古麻呂 (おおとものこまろ)
生没年:?-757(天平宝字1)

奈良時代の官人。父は不詳だが,《万葉集》巻四に旅人の姪(甥)の胡麿とあるので,旅人の弟宿奈麻呂の子か。継人の父。大学寮にあった733年(天平5),遣唐使に加わり渡唐,帰国にあたり唐人陳延昌に託され大乗仏典を日本にもたらしたことが,石山寺蔵《遺教経》跋語によって知られる。745年五位に叙せられ,ついで左少弁となった。750年(天平勝宝2)遣唐副使に任じられ,752年節刀を賜り,従四位上に叙せられて渡唐,翌年1月長安含元殿における朝賀の儀に,日本が西畔第2,吐蕃の下に次し,新羅が東畔第1,大食国の上に列したのに抗議し,日本を東畔第1に列せしめた。このとき唐から銀青光禄大夫光禄卿の官職を授けられた。《唐大和上東征伝》によると,帰国にあたり大使藤原清河らとともに揚州におもむき,鑑真に日本への渡航を要請,大使の判断にさからってひそかにみずからの船に乗せ,来航せしめた。同年薩摩の秋妻屋浦に着き,翌754年大宰府を経て上京,左大弁正四位下となった。757年,皇太子道祖王の廃位後,文室珍努ふんやのちぬ)とともに池田王擁立を主張したがいれられず,同年橘奈良麻呂の企てた藤原仲麻呂政権打倒の陰謀参画陸奥鎮守将軍・按察使として任に赴く途中美濃国で病といつわってとどまり,不破関をふさごうとしたが,捕らえられ,同年7月,拷問を受けて殺された。
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朝日日本歴史人物事典 「大伴古麻呂」の解説

大伴古麻呂

没年:天平宝字1.7(757)
生年:生年不詳
奈良時代の官人。旅人のおい。胡麻呂とも書く。天平2(730)年治部少丞で,大宰帥旅人が一時病臥したとき,遺言を受けに稲公と共に九州に赴いた。のち5年発の遣唐使に加わったともされ,17年従五位下に。天平勝宝2(750)年,遣唐副使。4年同族古慈斐の家で餞を受け唐に渡る。5年1月の唐朝の朝賀では新羅使と席次を争い上席の獲得に力あった。帰途,唐官憲への発覚を恐れる大使藤原清河に隠れて鑑真らを自船に乗せ帰国。6年左大弁に任じ,正四位下に昇叙。天平宝字1(757)年道祖王が皇太子を廃されると藤原豊成らが推す塩焼王に対し池田王を推したが,藤原仲麻呂による大炊王(淳仁天皇)擁立となった。同年陸奥鎮守将軍を兼ね陸奥按察使とされるが,橘奈良麻呂の変(757)の中心メンバーとして,拷問の杖下に死んだ。

(佐藤信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴古麻呂」の解説

大伴古麻呂 おおともの-こまろ

?-757 奈良時代の遣唐使(けんとうし)。
天平(てんぴょう)4年遣唐使船にのって唐(中国)にわたる。天平勝宝(しょうほう)4年遣唐副使として再度唐へいく。翌年正月長安の朝賀の席で新羅(しらぎ)(朝鮮)の下席につかされたのに抗議して変更させた。鑑真(がんじん)をつれて帰国。天平勝宝9年橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)の陰謀に加担して捕らえられ,拷問をうけて7月4日死去。名は胡麻呂,古万呂,胡満とも。

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