不破関(読み)ふわのせき

改訂新版 世界大百科事典 「不破関」の意味・わかりやすい解説

不破関 (ふわのせき)

美濃国不破郡に設置された関所。現在の岐阜県不破郡関ヶ原町松尾地区に当たる。この地域は近江から濃尾平野へ出る軍事・交通上の要衝であり,7世紀以前から在地首長による柵列など簡単な施設があったと想定される。672年の壬申じんしん)の乱では,《日本書紀》に〈不破之道〉をふさぐとみえ,臨時的な施設が置かれたと推測される。そして乱後の7世紀末~8世紀初めに恒常的な設備が置かれたが,701年(大宝1)に成立した大宝律令では,伊勢鈴鹿(すずか)・越前愛発(あらち)とともに,律令国家にとって最も重要な三関の一つとして,美濃不破関が設定された。そして美濃国は関国とよばれ,関には検問所とともに土塁・隍(ほり)などの防衛設備が築かれ,現在の関ヶ原町小関(こぜき)には脇路の北国街道を抑える小関が置かれたとみられる。また兵士や鼓吹・軍器が常置され,国司四等官(しとうかん)のうち複数が常駐したが,彼らは防衛設備の責任者として城主(きぬし)ともよばれた。三関設置の主目的は非常に備えることにあったが,それは東方からの侵攻に備えたのではなく,中央での変・乱や天皇の没時などにあたって,その変動が東国へ波及することを阻止するものであった。1974年から5次にわたる美濃不破関跡の発掘調査によると,総面積13万3500m2,北北西から南南東流する藤古川の谷壁を西側の障害線とし,その左岸段丘上に北・東・南を土塁で囲んだ台形縄張をもっていた。そのほぼ中央を東西東山道が通り,道路の北側中央に南面して,築地塀に囲まれた約1町四方の政庁地区が設定された。789年(延暦8)7月,桓武天皇の勅によって美濃不破関は停廃されたが,非常事態に三関を閉鎖する固関(こげん)は,9世紀を通してしだいに儀礼化しながら,江戸幕藩体制下まで長くつづけられた。なお,鎌倉時代において在地領主が不破関で関銭を徴収した文書がある。また歌枕としても知られる。
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百科事典マイペディア 「不破関」の意味・わかりやすい解説

不破関【ふわのせき】

古代・中世の関所。愛発(あらち)・鈴鹿とともに三関(さんかん)の一つ。東山道の近江(おうみ)・美濃(みの)の国境に置かれ,岐阜県不破郡関ヶ原町松尾に関跡がある。付近は672年の壬申(じんしん)の乱,1600年の関ヶ原の戦古戦場
→関連項目揖斐関ヶ原養老国定公園柏原宿関西鈴鹿山脈関ヶ原[町]美濃国

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「不破関」の意味・わかりやすい解説

不破関
ふわのせき

美濃(みの)国(岐阜県不破郡関ヶ原町)に置かれた古代の関所。伊勢(いせ)国(三重県)鈴鹿(すずか)関、越前(えちぜん)国(福井県)愛発(あらち)関とともに三関(さんかん)の一つ。646年(大化2)の大化改新の詔(みことのり)に「関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのに基づいて設けられたものと思われる。壬申(じんしん)の乱(672)のときには大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が本営を置いたが、関所は設けられていなかった。708年(和銅1)には三関国守のことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみえるから、このときまでには置かれていたことがわかる。709年藤原房前(ふささき)が東海、東山両道の関剗(かんさん)(関所、とりで)検察のとき、美濃守(かみ)が賞揚されている。桓武(かんむ)天皇のとき789年(延暦8)7月、蝦夷(えぞ)征討も進んだため、交通の妨げとなるとして、三関は停廃された。しかし、国家の大事に際し固関使(こげんし)が形式的に派遣された。

[田名網宏]

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日本の城がわかる事典 「不破関」の解説

ふわのせき【不破関】

岐阜県不破郡関ヶ原町にあった古代の東山道の関所。673年(天武天皇2)に、天武天皇の命により都(飛鳥浄御原宮)を守るために、東海道の鈴鹿関(三重県亀山市ほか、所在が明らかではない)、北陸道の愛発関(あらちのせき)(福井県敦賀市ほか、所在が明らかではない)とともに設けられ、701年(大宝1)の大宝律令によって正式に定められた関で、この3つの関を三関という。この三関から東を東国、あるいは関東とよんだ。789年(延暦8)に廃止されたが、その後東山道の関所として復活した。現在、関跡には西城門跡、土塁の一部が残っている。また跡地の一角に不破関資料館が建てられ、発掘された和同開珎や陶器が展示されている。JR東海道本線関ヶ原駅から徒歩約15分。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「不破関」の意味・わかりやすい解説

不破関
ふわのせき

岐阜県南西部,伊吹山地の南部にある古代三関の一つ。古くは東山道の要地で,典型的な狭間地形に位置し美濃と近江との国境をなしていた。壬申の乱 (672) には天武天皇の本営が設置された。延暦8 (789) 年ほかの2関とともに廃止。関跡は関ヶ原町松尾字大木戸坂の上に句碑などとともに保存されている。 (→愛発関 , 鈴鹿関 )

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「不破関」の解説

不破関
ふわのせき

古代,美濃国に設けられた関。三関(さんげん)の一つ。「日本書紀」の壬申の乱の記事にみえるので天智朝の設置と考えられる。関跡は1974年(昭和49)から行われた5次にわたる発掘により,岐阜県関ケ原町松尾に所在することが確認された。規模は東西約460m・南北約432mにわたり,藤古川や土塁によって防備を固め,中央を東山道が通過していたと考えられる。三関は789年(延暦8)に廃止されたが,その後も固関(こげん)の対象とされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「不破関」の解説

不破関
ふわのせき

古代,三関の一つで,現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった関所
美濃国と近江国の境。壬申 (じんしん) の乱(672)に大海人 (おおあま) 皇子がここに本営を置いた。平城京遷都後,その重要性は薄れ789年廃止。しかし平安時代にも朝廷の大事には固関 (こげん) 使(勅使)が発遣され,万一の事態に備えた。

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