日本大百科全書(ニッポニカ) 「大北方戦争」の意味・わかりやすい解説
大北方戦争
だいほっぽうせんそう
Stora nordiska kriget スウエーデン語
1700~21年、スウェーデンとロシア、デンマーク、ポーランド、ザクセン、プロイセン、ハノーバーなどの諸国との間で行われた戦争。北方戦争ともいう。
[本間晴樹]
背景
17世紀中ごろまでにスウェーデンはバルト海沿岸に広大な「帝国」を形成していたが、これはデンマーク、ポーランドなどにとって非常な脅威であり、またロシアにとっては西方進出の障害となっていた。デンマーク、ポーランド間の対スウェーデン同盟は1698年に成立し、99年ロシアもこれに加わった。この年、スウェーデン王家がホルシュタイン・ゴットルプ公家と姻戚(いんせき)関係を結んだことは、デンマークとの関係を決定的に悪化させた。
[本間晴樹]
経過
1700年初頭、デンマーク軍はホルシュタインに侵入し、ポーランド軍はリガ要塞(ようさい)を包囲した。これに対し、スウェーデン軍は、国王カール12世直率の下ただちにシェラン島を急襲し、8月デンマークに講和を強制した。スウェーデン軍はさらにリボニアに上陸してリガを救い、イングリアに向かった。8月に戦争に加わったロシア軍は、イングリアの要塞ナルバNarvaを包囲していたが、11月スウェーデン軍に惨敗を喫した。その後、スウェーデン軍はポーランドに侵入し、04年ザクセン選帝侯を兼ねるアウグスト2世(ザクセン選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト1世)をポーランド王位から追い、スタニスワフ1世Stanisław Ⅰ(在位1704~11、33~36)を王位につけ、さらに06年ロシア軍をポーランドから撃退し、ザクセンに侵入して、9月アウグストとも講和を結んだ。この間にロシア軍はピョートル1世(大帝)の下で再建され、04年までにナルバを含むイングリア、カレリアを占領し、ふたたびスウェーデンを脅かしていた。
1707年、スウェーデン軍はザクセンからロシアへの侵攻を開始し、08年7月にはモギレフに達した。しかし焦土戦術とゲリラ戦に苦しめられたカール12世は、モスクワへの進撃を断念してウクライナへ向かい、ロシアに反逆したコサックと合流した。09年7月のポルタバPoltavaの戦いでスウェーデン・コサック連合軍は大敗し、カール12世はトルコへ亡命した。トルコ政府は、カール12世の使嗾(しそう)およびロシアの南進の脅威に刺激され、10年ロシアと開戦した。11年ロシア軍は、プルート河畔に進出してトルコ軍に包囲され、不利な講和を余儀なくされた。カール12世は講和に反対したが、トルコ側のいれるところとはならず、14年トルコを追放され、前ポンメルンに戻った。
ポルタバの戦いののち、デンマークは、ふたたびアウグストを国王に迎えたポーランド、およびプロイセン、ハノーバーとともにまた戦争に加わり、バルト海南岸のスウェーデン領に侵攻した。また、ロシア軍は1712年フィンランドに侵入し、14年までに全フィンランドを制圧し、バルト海の制海権をも確保した。15年帰国したカール12世は、スウェーデン軍の再建に努め、また敵側の分断を企て18年ロシアとの講和交渉に入り、一方で16年と18年ノルウェーを攻撃した。しかし、18年11月フレデリクスハル要塞の攻囲中、カール12世は流弾により戦死した。
[本間晴樹]
講和
その後スウェーデン政府は、ロシアとの講和工作を中止し、1719年イギリスと結び、20年プロイセンおよびデンマークと講和してロシアと戦い続けることになった。しかし7月、スウェーデン海軍が壊滅的打撃を受けるとついに戦争継続を断念し、21年8月ニスタットNystadでロシアと講和条約を結んだ。この戦争の結果スウェーデンは、フィンランドを除きバルト海東・南岸の領土を大部分失い、かわってロシアがバルト海沿岸に対する影響力を増大させた。
[本間晴樹]