翻訳|Riga
バルト海に臨むラトビア共和国の首都。ラトビア語ではRīga。面積303km2,人口72万9670(2005)。バルト海のリガ湾に注ぐダウガバ川(ロシア名は西ドビナ川)の河口上流15kmの両岸にまたがる都市。リガの名は旧市街地の城壁北側を往時流れていたリガ川(ラトビア語で〈曲がりくねった川〉の意)に由来する。1282-1630年にはハンザ同盟に加盟し,ロシア内陸の毛皮,穀物などを西ヨーロッパに中継した商業都市の歴史をもつ。バルト3国中最大の行政・産業・文化都市で,旧ソ連ではサンクト・ペテルブルグに次ぐバルト海沿岸域の貿易,軍事,漁業上の重要な港湾都市であった。造船,化学工業,魚肉缶詰などの食品加工業が盛んであるが,特に鉄道車両の製作はずばぬけており,旧ソ連のディーゼル機関車の100%,電気機関車の75%を製造,またラジオの25%を生産していた。国立総合大学をはじめ六つの大学,科学アカデミー,八つの劇場,オペラ・バレエ劇場がある。近郊には砂浜と松林が遠くのびる保養地ユールマラJūrmalaがあり,夏季には内外の避暑客,海水浴客でにぎわう。1974年神戸市と姉妹都市の関係を結び,以来,文化・経済の交流を深めている。
リガは古くはフィン系リーブ人の地で,周辺にはバルト系ラトビア人の豪族が割拠していた。12世紀にドイツ商人が渡来するようになり,1201年に司教アルベルト・フォン・アッペルデルンAlbert von Appeldern(?-1229)によってドイツ人の要塞が築かれ,翌年にはドイツ刀剣騎士修道会が創設された。36年同修道会はサウレの戦でリトアニア人に敗れ,プロイセンのドイツ騎士修道会に吸収され,その一派としてリボニア騎士修道会と改称,リガはその本拠地となった。55年には大司教座が置かれ,やがてリガは修道会,大司教座,都市の3者の確執を経ながら発展していった。16世紀後半リボニア戦争で騎士修道会は崩壊,1561年リガは自由都市となった。81年以来ポーランド,のちにはグスタブ2世治下のスウェーデンの支配を経て,1710年ピョートル1世の率いるロシア軍に占領された。以後第1次大戦末にいたるまでロシア領リボニア地方の中心都市として甘んじた。
1918年独立国ラトビアの誕生(全土掌握は1920年)とともにリガは初めて原住民ラトビア人の首都となり,民族文化を開花させた。国民作家ライニスや民族音楽の作曲家メディンシュJanis Mediņš(1890-1966)はその代表である。19年ラトビア最初の大学リガ大学が創設され,エンゼリンスJanis Endzelīns(1873-1961)は《ラトビア語辞典》6巻を完成,標準語の確立に努めるかたわら,《ラトビア歌謡集》12巻を編纂,民族意識の高揚に大きく寄与した。第2次大戦後リガは,バルト3国の重要都市として多数のロシア人の移住を見,1970年以来ロシア人がラトビア人を数のうえで凌駕している。
1941-44年ナチス・ドイツ軍によりダウガバ川右岸沿いの旧市街地区も打撃を被ったが,その後補修され,ドイツ中世都市の姿を再現している。対岸から眺めると,中央に大パイプオルガンを備えた有名な〈ドーム教会〉,左に〈ヤーコブ教会〉,右には〈ペーテル教会〉がひときわ高くそびえ立ち,左端にリボニア騎士修道会の〈リガ城〉(現在は歴史博物館)が望まれる。旧市内の狭い石畳の路地は複雑に入りくみ,迷路をなしているが,どの建物も由緒ある歴史をもち,博物館,図書館,コンサート・ホールとして利用されている。おもな遺構として,スウェーデン門,ギルド商館,大商人の邸〈黒ん坊頭の邸〉〈三人兄弟の邸〉がある。そのほかヨハネ教会など多数の教会建築が挙げられる。
執筆者:村田 郁夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ラトビア語名リーガ。リガは英語名。バルト海東南岸に位置するバルト三国の一つラトビア共和国の首都。ダウガーバ(ロシア名西ドビナ)河口から9キロメートル上流に位置する。人口76万4328(2000)。同共和国全人口の約32%が集中し、経済、交通、文化の大中心地であり、最重要港をもつ。19世紀以来、各種機械工業、金属加工、軽工業に特色があり、とくに鉄道車両(客車)生産は、独立以前にはソ連全体の30%を占めていた。現在も電話機、冷蔵庫、オートバイ、ラジオ、家庭用洗濯機やディーゼルエンジン、タービンの生産、化学工業、水産加工が盛んである。旧市街には、13世紀初めから建設されたロマネスク様式のドーム教会や14世紀のリガ城(現在、歴史博物館などがある)、スウェーデン門など、歴史的建造物が多く残されている。文化的中心地としても発展しており、1862年に設立されたリガ工科大学、1919年設立のラトビア大学をはじめとする多くの高等教育機関がある。博物館、国立劇場、修復されたオペラ劇場をはじめとする文化施設も充実している。19世紀後半に民族意識の覚醒(かくせい)がみられ、1873年に最初の歌謡祭が開催された。5年に一度の民族規模の歌謡祭は現在も続けられている。
[志摩園子]
町の建設はハンザ商人、北方十字軍の帯剣騎士団やドイツ騎士団などのドイツ人によって12世紀末に始まり、司教座も置かれた。独自の市長を選ぶ権利を獲得した13世紀の末にはハンザ同盟にも加わった。15世紀末はドイツ騎士団領の拠点であったが、1581年にポーランド領、1621年にスウェーデン領となり、自治権が認められた。1709年のポルタバの戦いによって、ロシアのピョートル大帝が同市を獲得した。以後、ロシア帝国内の主要な貿易港として発展を続けたが、その東西貿易を担ったのはドイツ人商人であった。1812年には、ナポレンオン軍によって占領された。19世紀後半には主要な産業が発展し、ロシア帝国内でもモスクワ、ペテルブルグに次ぐ有数の工業都市となり、ロシア―バルト鉄道車両会社の設立をはじめ、多くの工場が操業し始めた。
第一次世界大戦中は、赤軍とドイツ軍の争いの舞台となり、占領が繰り返され、ラトビア人ボリシェビキ政府とラトビア人民族主義者政府の成立を次々とみた。1918年3月のドイツとソ連間のブレスト・リトフスク条約で、リガはドイツ占領下となった。同年11月18日、民族主義者グループが中心となって市内の国立劇場で独立が宣言された。この独立の時代、首都となってさらに発展を続けたが、1940年にはソ連への編入を強いられ、独立を失った。第二次世界大戦中も、ソ連軍とドイツ軍の戦争の舞台となり、また、郊外に、ユダヤ人強制収容所もつくられた。第二次世界大戦後のソ連邦社会主義構成共和国時代も首都であり、1991年、ラトビアはソ連からの独立をふたたび果たした。
[志摩園子]
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