改訂新版 世界大百科事典 「リボニア」の意味・わかりやすい解説
リボニア
Livonia
バルト海東岸地域の歴史的名称。広義にはほぼ現在のラトビア,エストニア両共和国の占める地方。狭義には西ドビナ(ダウガバ)川以北のラトビアにエストニア南部を加えた地方を指した。前3千年紀にフィン・ウゴル系,前2千年紀にバルト系の諸族が来住し,10世紀以降彼らのうち沿海部のものがバイキングの影響をうけ,内陸部のものが北西ロシアの諸公国の支配をうけたのち,13世紀にほぼ全土がドイツ人に征服された。ドイツ人はその後第1次世界大戦まで支配民族としてとどまり,ドイツ文化圏の東端をなした。リボニアの地名も12世紀後半にバルト海東岸に現れたドイツ商人が西ドビナ河口付近のリーブ人の居住地を〈リーブ人の地Livland〉とよんだのに始まる。リーブ人は12世紀末に始まったドイツ聖職者によるカトリックの布教に強く反発したため,ローマ教皇の認可で異教徒討伐が組織され,リボニア司教アルベルト・フォン・アッペルデルンAlbert von Appeldernが1201年リガを建設し,02年,刀剣騎士修道会Schwertbrüderordenを設立した。騎士修道会は西ドビナ川両岸を征服したのち,クールランド,エストニアにも侵入し,後者にはデンマーク軍も進出して27年までに征服が完了した。しかし騎士修道会は南方では36年,リトアニア族に敗れ,37年,ドイツ騎士修道会と合体してその一部(リボニア騎士修道会)となったが,東方への進出も42年,ノブゴロドに阻止された。征服とともにドイツ人は大司教座と都市を建設し,騎士たちも領主化したが,政治的にはリガの大司教と騎士修道会長が支配権を争い,リボニアは騎士修道会領と四つの司教国と若干の自由都市のゆるい連盟の形をとり,1419年に議会が発足してからは,騎士(土地貴族)が他身分(司教と都市民)に対して優位に立つようになった。聖職者と騎士のほか都市民も大半がドイツ移民であったが,農村にはプロイセンと違ってドイツ人の入植は行われず,のちにラトビア人,エストニア人を形成する先住民が農奴化されていった。彼らはその言語と民俗を維持し,キリスト教化もはじめは表面的であった。リガ,レバル(現,タリン),ドルパート(現,タルトゥ)などの主要都市はハンザ都市で,ロシアを後背地として発展し,騎士領も中世末からグーツヘルシャフト経営による西方への穀物輸出で利益をあげたが,都市と騎士の対立に加えて,16世紀にはルター派の浸透で司教国家の存在が時代錯誤となり,外からは新興のモスクワ・ロシアの圧力が高まった。
リボニア連盟はリボニア戦争の初期に解体し,1561年,狭義のリボニアがリトアニア領(1569年以降は連合国家リトアニア・ポーランド領),北エストニアがスウェーデン領となり,クールランドはポーランド王を封主とする公国になった。貴族の特権と都市の自治はこの後も維持され,公用語としてのドイツ語とドイツ法も残されたが,バルト海の支配権をめぐる国際的角逐のなかで,この地域はさらに何回か戦場になり,主権者も交替した。三十年戦争中の1621年,スウェーデン王グスタブ2世アドルフがリガを占領して,29年,ラトビア南東部の地域ラトガリアを除く狭義のリボニアをポーランドから奪い,45年にはサーレマー島もスウェーデン領になった。バルト海東岸の領土はスウェーデンの穀倉となり,同国は17世紀半ばにもロシアの攻撃からこれを守った。カール11世(在位1660-97)が本国にならって旧王領地の大規模な回収と農民保護の政策をとったため,これがドイツ系貴族の不満を買い,北方戦争でスウェーデンがこの地域をロシアに譲る一因となった。ロシア皇帝ピョートル1世はドイツ系貴族の所領と特権,自治権を認めたが,スウェーデン時代は,聖書のリーブ語訳も行われ,ラトビア人,エストニア人の民族形成が緒につき,彼らには良き時代として記憶されることになった。
ロシアは1772年と95年の第1次と第3次のポーランド分割でさらにラトガリアとクールランドを併せ,広義のリボニア全体がロシア領となったが,ビテプスク県に編入されたラトガリアを除き,ドイツ人とその制度・文化の支配的なエストニア,リボニア,クールランドの3県は,農業経営,行政組織,教育・文化などの点でロシア帝国の先進地域をなし,3県出身のいわゆるバルト貴族は帝国の官界,軍隊,学界でも重きをなした。また土地経営に熱心な彼らの要望で1816-19年,ロシア本国に先立って3県の農奴解放が行われたが,これは〈土地抜き〉の解放で,農民の土地不足が深刻化した。ドイツ人は大農場と公共機関のほか,企業,銀行,教会(ルター派),大学などでも引き続き幹部を独占したが,ドイツ系貴族の人口比はしだいに低下し(19世紀末に4~5%台),各方面に民族ブルジョアジーが進出し,産業の発展で増加した3県の都市人口(1863年に約21万,1897年に60万以上)のなかでもラトビア人,エストニア人の比が高まった。この時期には民族語による初等教育も普及して両民族の識字率は高く,その民族的自覚は政府のロシア化政策によってかえって強められ,大都市では労働運動もおこり,こうした動きがロシア革命後のラトビアとエストニアの独立を準備した。
→エストニア →ラトビア
執筆者:鳥山 成人
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