大呂村(読み)おおろむら

日本歴史地名大系 「大呂村」の解説

大呂村
おおろむら

[現在地名]横田町大呂

五反田ごたんだ村・蔵屋くらや村の東に位置し、西流する斐伊川両岸と当村で同川に合流する福頼ふくより川・山奥やまのおく川の両岸に耕地が階段状にある。快円日記(岩屋寺文書)に「大呂村」とみえ、岩屋いわや寺根本堂再建にあたって永正一八年(一五二一)七月一八日に村内の「堀内ノ上、妙厳寺上向鬼神之ケヤケ木」が最初に伐り出された。大永古記録(同文書)の天文一二年(一五四三)八月条には尼子晴久の横田庄被官衆として「大呂村河(副カ)殿」とみえる。同一四年一二月二四日尼子晴久は森脇山城守(家貞)を当村代官とし、公用(年貢)一九二貫八〇〇文の徴収を命じている(「尼子晴久条書案」吉川家中并寺社文書)

正保国絵図に大呂村はみえず、代山奥だいやまおく村・代山ノ内原田はらだ村・中帳なかちよう村・福頼村の四村に分けて記される。

大呂村
おおろむら

[現在地名]福知山市字大呂

由良川の支流大呂川の谷にある。中世には氷上ひかみ(現兵庫県)方面より丹後へ通ずる要路(山陰道丹後別路)にあたった。村の西北の段丘上に天寧てんねい寺があり、長く足利将軍家の祈願寺として栄えた。

中世には佐々岐ささき下山しもやま(金山郷)の地、近世初期には瘤木こぶのき村・長尾ながお村・一尾いちお村を含めて大呂村とよんだ(丹波志)

江戸時代の大呂村については、「丹波志」に「大呂村桐村 奥谷」として高三一二・九九五石を記す。上総国飯野藩領。また「桐村ノ谷ヲ登リ、嶺ヲ大タワ越トシ、東ヨリ西ヘ越ス佐々木谷一ノ宮エ越ス峠也、頂凡二十丁下リ道拾二三丁、一ノ宮ニテハ十倉峠ト云、牛馬不通」とある。

大呂村
おおろむら

[現在地名]智頭町大呂

中島なかしま村の北、北股きたまた川沿いに位置し、枝村に平畑なるばたけがある。平将門に助力した大呂将監が、将門の死後北股谷に隠れ帰農して山野の開拓をした。ここを「隠れ谷」といい、のち旧家臣七人もこの地で農民になった。これが当村の始まりであると伝える(初稿八頭郡誌)。拝領高は三七石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高四一石余、毛付高五〇石余、本免五ツ九分、同年の物成高二八石余、ほかに藪役銀九匁が課されていた。「因幡志」では家数一三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高五三石余、竈数一七(うち神主一)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報