大坂山(読み)おおさかやま

日本歴史地名大系 「大坂山」の解説

大坂山
おおさかやま

犀川町と田川郡香春かわら町の境にそびえる標高五七三メートルの山。「宇佐大鏡」に宇佐宮本御庄の一つである勾金まがりかね(現香春町)の四至として「東限大坂山」とみえる。現在は飯岳いいだけ山ともいう。猪岳とも書くことなどから、「いのたけ」とよぶことがある。山頂部では平安時代の祭祀遺跡が確認されており、南北朝期には仲津なかつ郡と田川郡とを結ぶ戦略的な要地として関が設置されることもあった。観応三年(一三五二)三月一〇日の某感状写および同年六月日の西郷有政軍忠状写(ともに西郷文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば、当時足利直冬方であった西郷有政は「崎山・大坂」に関を築いて田川郡から侵入した武藤但馬守らと戦った。

大坂山
おおさかやま

「日本書紀」崇神天皇一〇年九月二七日条の箸墓伝説に「大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝にして運ぶ」、「古事記」履中天皇段の墨江中王の反乱の記事に、天皇が難波から「大坂の山口」に至り、そこで道を変更して当麻たいまを経て石上いそのかみ神宮に逃げたとあり、また「日本書紀」天武天皇元年七月二三日条には、壬申の乱に際して佐味君少麻呂が数百人を率いて「大坂」に駐屯し、同八年一一月条に「初めて関を竜田山・大坂山に置く」などとみえている大坂山は現香芝町西部、穴虫あなむし峠付近一帯の丘陵をさすものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報