大山下村(読み)おおやましもむら

日本歴史地名大系 「大山下村」の解説

大山下村
おおやましもむら

[現在地名]篠山市大山下

旧丹南町域の北部に位置し、大山川が大川(篠山川)に合流する。中世大山庄のうち。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に下郷のうちとして「下村」とみえ、高七五三石余。承応三年(一六五四)頃、北野きたの村・明野あけの村・東河地とうこうちを分立したという。正保郷帳では大山下村として田高五八〇石余・畠高一七三石。元禄郷帳では高七六一石余。「丹波志」に神田こうだ(河内郷の誤り、大山庄)大山の下とみえ、高三八一石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では大山組のうち大山下村とあり、家数九九・人数四四六。天保郷帳では高八六〇石余。「多紀郡明細記」によれば山役米三石のほか薪六五荷・瓦焼木三〇束を納めていた。


大山下村
おおやましもむら

[現在地名]神崎町すぎ

神東じんとう上吉富かみよしとみ村の北に位置し、多可たか郡に属した。猪篠いざさ川の上流域に立地し、集落は同川に沿って縦走する生野いくの街道沿いに点在する。北は大山中村。中世は大山庄に含まれた。慶長国絵図には下村とみえ、街道の両側二村記される。江戸時代は初め姫路藩領、寛永一六年(一六三九)幕府領となり幕末に至る(「徳川実紀」・正保郷帳・旧高旧領取調帳など)。寛永三年の多可郡新検高(松井家文書)に大山下とみえ、高一五六石余。正保郷帳に大山下村とみえ、田方一〇一石余・畑方四一石余、「少旱損・草山有・山役有・杉原役・鉄炮役」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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