日本歴史地名大系 「大山庄」の解説
大山庄
おおやまのしよう
篠山盆地の北西にあった京都東寺領庄園。現篠山市の旧大山村とほぼ一致する庄域で、篠山川支流の大山川流域を中心とした。旧大山村は近世の
〔成立期の大山庄〕
東寺領大山庄は、承和一二年(八四五)九月一〇日の民部省符案(東寺文書。以下の記述は主として東寺文書・東寺百合文書・教王護国寺文書に依拠し、これらについては必要に応じ個別の文書名を記した)によれば、空海死後経営困難に陥っていた
康平四年(一〇六一)七月の大山庄坪付案はそれまでの官省符の寺田範囲を超えた大山庄域全体の耕地状況を書上げたものであり、大山庄の田地は独条の二ヵ里、一条一里から五里までの五ヵ里、二条二里から五里までの四ヵ里の計一一ヵ里・五八町四段余となっている。当庄の条里は実際の条里地割とは別次元の、国衙の土地台帳上における土地把握・表示方式としての条里であるが、坪付に付された地名などから、一条の南に二条が位置し、里は東から西へ一里・二里と進み、一条と二条は一里分ずれて接続すること、一条一里・二里・三里の各里はだいたいにおいて大山川の主要支谷
大山庄
おおやまのしよう
- 山形県:上山市
- 大山庄
山形盆地の南東部、
安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「庁分御庄」として「出羽国大山 成生」とある。これにより少なくとも一二世紀中頃には天皇家領となっていたことが知られるが、近隣の庄園の成立から、一一世紀前半に摂関家領として成立し、天皇家に寄進されたと推定することも可能である。鎌倉時代末期には成生庄とともに亀山天皇の皇女昭慶門院領となっており(嘉元四年六月一二日「昭慶門院領目録」京都大学蔵古文書集)、八条院―春華門院―順徳天皇―後鳥羽天皇―後高倉院―安嘉門院―亀山天皇と伝領されたことが知られる。
大山庄
おおやまのしよう
大山川流域、現大山町を中心とする一帯に比定される広域通称名。その範囲は未詳であるが、天正八年(一五八〇)四月一三日の田北鑑重(紹鉄)位牌銘(大友史料)に「大山丿庄万々金村之内、松原ト申小村」とあり、現町域南部の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報