大岐村(読み)おおきむら

日本歴史地名大系 「大岐村」の解説

大岐村
おおきむら

[現在地名]土佐清水市大岐

久百くもも村の南に位置する。一般に土佐湾沿岸東部を大きく上灘とよんだが、当地辺ではまた別に足摺あしずり半島の東側、土佐湾に面した当地から大谷おおたにまでの海岸地帯を上灘とよんだ。当村はこの上灘の最北端にあたる。上灘中、最も耕田の多い村で、しばノ川と和田わだ谷より流れ出る土砂潮流が削った花崗岩の崩壊砂が運ばれて平野がつくられている。南・西・北の三面は山で囲まれ、東は大岐松原とよばれる南北に延びる美林と白砂の続く景勝の地。「土佐州郡志」は「東西七町南北十町、(中略)其土多砂、村東有松樹林、縦七十八町許、山林処々皆禁伐」と記す。

建武二年(一三三五)四月七日の権少僧都心慶下知状(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)金剛福こんごうふく寺の供田畠の所在を記したなかに「大岐ノ御供田五段」とみえる。天正一七年(一五八九)の大岐之村地検帳によれば検地面積五二町余、屋敷数五五、うち居屋敷二九。


大岐村
おおまたむら

[現在地名]金山町山入やまいり

山入村の東三三町、戸板といた(九五八メートル)の麓に位置し、村の中央を山入川が西流し、松坂まつざか峠を経て伊南いな郷に通じる街道に沿う。「会津風土記」に大俣とあり、「会津鑑」に「大俣村、横田ヲ分ル」とある。当村も横田よこた村と一村をなしていたとみられ、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がない。村中に館跡をもち、「会津鑑」によると東二二間・西一五間の小規模なもので、永正(一五〇四―二一)頃横田山内氏が築き、天正(一五七三―九二)頃に新田隼人が居住したという。安永七年(一七七八)の大塩組御手鑑(大竹家文書)では高七三石余、免四ツ一分五厘、家数一〇、人数四二(男二二・女二〇)、牛馬なし、産物なしとあり、名主は山入村名主が兼ねている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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