大村益次郎墓(読み)おおむらますじろうのはか

日本歴史地名大系 「大村益次郎墓」の解説

大村益次郎墓
おおむらますじろうのはか

[現在地名]山口市大字鋳銭司

鋳銭司すぜんじの東部、長沢ながさわ池の北にある。国指定史跡

大村益次郎は、文政八年(一八二五)鋳銭司村内大村おおむらの農家に生れた。初め村田蔵六と称し、儒学を広瀬淡窓に、蘭学緒方洪庵に学び、洋学をもって宇和島うわじま(現愛媛県宇和島市)藩に仕えたが、江戸に出て洋学塾を開き、次いで幕府の講武所教授となった。万延元年(一八六〇)萩藩に迎えられ、明治新政府の樹立にあたって兵部大輔として軍制の大改革を立案した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大村益次郎墓」の解説

おおむらますじろうのはか【大村益次郎墓】


山口県山口市鋳銭司(すぜんじ)にある墓。大村益次郎(村田蔵六(ぞうろく))は幕末・明治初期の洋学者・兵学者・政治家で、1825年(文政8)、周防国吉敷郡鋳銭司村の医家の長男として生まれた。防府梅田幽斎に医学を学び、のち緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)に学ぶ。幕府などで西洋兵学・蘭学などの教授を務めた。1865年(慶応1)に長州藩上士となり、翌年の第2次長州征討(四境(しきょう)戦争)の際には幕府軍を撃退し、討幕の機を早めた。また明治維新後は陸軍を創設し、近代兵制化の樹立に尽力した。1869年(明治2)9月に保守派士族襲撃重傷を負い、同年11月に大阪の病院で死去した。市内の鋳銭司にある墓は花崗岩製で、正面には「故兵部大輔贈従三位大村永敏墓」と刻まれている。並んで琴子夫人の墓がある。1935年(昭和10)に国の史跡に指定された。その南の長沢池畔には大村益次郎を祀る大村神社がある。JR山陽本線四辻駅から徒歩約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報