日本歴史地名大系 「大樹村」の解説 大樹村たいきむら 北海道:十勝支庁大樹町大樹村[現在地名]広尾(ひろお)郡大樹町一条通(いちじようどおり)・二条通(にじようどおり)・三条通(さんじようどおり)・北通(きたどおり)・南通(みなみどおり)・新通(しんどおり)・仲通(なかどおり)・東本通(ひがしほんどおり)・柏木町(かしわぎちよう)・双葉町(ふたばちよう)・字相川(あいかわ)・字尾田(おだ)・字幸徳(こうとく)・字光地園(こうちえん)・字大樹・字下大樹(しもたいき)・字大全(たいぜん)・字拓進(たくしん)・字日方(ひかた)・字振別(ふるべつ)・字萌和(もいわ)、忠類(ちゆうるい)村字明和(めいわ)・字共栄(きようえい)明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した当縁(とうぶち)郡の村。歴舟(べるふね)村の西、歴舟(れきふね)川上流側にある。村名は妙喜(たえき)、大喜(たいき)ともよばれた。近世にはトカチ場所のうち。玉虫「入北記」に「タヱキ村」とあり、アイヌの戸数二・人口二一(安政四年八月二七日条)。「廻浦日記」にはサツナイのアイヌのうち一軒は「ヘルフ子より五里程枝川の上字タイキと云へ引移り」とある。 大樹村たいきむら 北海道:十勝支庁大樹町大樹村昭和三年(一九二八)から同二四年八月まで存続した広尾(ひろお)郡の村。昭和三年一〇月同郡広尾村北部の旧当縁(とうぶち)郡当縁村・歴舟(べるふね)村・大樹村が分村し、二級町村として成立、四大字を編成した。同地区での広尾村(当時茂寄村)からの分村機運はすでに大正八年(一九一九)官設鉄道広尾線の予定線繰入れ頃にさかのぼり、昭和二年大樹市街で北部広尾郡住民大会が開かれ、満場一致で分村請願書の提出を決議。請願書は北海道庁長官と村長に送られ、九月の村会で同意を得て同三年一〇月一日付で広尾村から分立、大樹村として二級町村制が施行された(大樹町史・新広尾町史)。 大樹村たいきむら 北海道:十勝支庁大樹町大樹村昭和二四年(一九四九)八月の忠類(ちゆうるい)村分村後、同二六年四月の町制施行まで存続した広尾(ひろお)郡の自治体。分村直前の昭和二四年四月一日現在の忠類村分を除いた大樹村の戸口は一千六四九戸・九千二〇九人、業態別生業戸数は商工業二三〇戸・農業七〇八戸、その他七三三戸。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by