大物・大物浜(読み)だいもつ・だいもつはま

日本歴史地名大系 「大物・大物浜」の解説

大物・大物浜
だいもつ・だいもつはま

神崎かんざき河口に位置し、平安時代末以降港湾が発達した。天平勝宝八歳(七五六)一二月一七日の摂津国河辺郡猪名所地図写(尼崎市教育委員会蔵)には、東大寺猪名いな庄の南部に杭瀬くいせ浜・長渚ながす(長洲)浜とともに大物浜の記載がみられる。同図は平安時代末以降の写であり、これら浜の記載も後世のものと考えられているが、大物浜が猪名庄南西部の沿岸に形成された浜であったことは事実である。

鎌倉期に作成された大物浜・長洲浜請文(真福寺文書)によれば、天承元年(一一三一)と長承二年(一一三三)国司の検注が行われており、長承二年には長洲浜・杭瀬浜・大物浜にはすでに在家があった。これらの浜は大阪湾の潮流によって東西方向に形成されていった沿岸洲の南端の浜であり、洲と陸地の間には江が広がっていた。久安四年(一一四八)頃には京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)禰宜鴨季継が「神領大物浜」と述べているように(一一月二三日「鴨御祖社禰宜鴨季継請文」東大寺文書)、長洲をめぐる東大寺と同社の争いでは、当地の帰属についても双方の主張が対立するようになっていった。また久安年間には源為義が当地の押領を企てているが(前掲請文)、これは神崎川の河口に位置する大物が、平安時代末期以降港湾としての役割を果すことが多くなっていったことと関連があるのではないかと考えられる。治承四年(一一八〇)六月の福原ふくはら遷都に際し、二日に京都を出発した遷都の一行はその夜大物に至り、翌朝福原へ向かう予定になっていた(「玉葉」同年六月二日条)。六月一四日には九条兼実がよど川を船で下って大物に至り、輿に乗換えて福原に向かっており(同書同日条)、八月二二日に藤原忠親が同じく船で大物に到着し、輿で福原に向かっているなど(「山槐記」同日条)、京都と福原を往来する公家たちが頻繁に当地を通過するようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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