日本大百科全書(ニッポニカ) 「大竹省二」の意味・わかりやすい解説
大竹省二
おおたけしょうじ
(1920―2015)
写真家。静岡県小笠(おがさ)郡に生まれる。父親の仕事に従って8歳で上京。13歳ごろにはカメラを買ってもらって写真を撮るようになる。写真誌『アサヒカメラ』の月例コンテストに入選したのを手始めに、『フォトタイムス』などさまざまのコンテストに投稿入選し、10代はアマチュア・カメラマンとしての時代を送った。大竹はヌードやポートレートを撮り、秋山庄太郎らとともに「婦人科」などとして知られた存在であるが、この時代から30代の初めにかけての写真には、それとは異なる、時代の記録として撮られた多くの写真に見るべきものがある。
10代のアマチュア・カメラマン時代の写真は、このころの日本の写真の特徴でもあるよく構成された一点写真の魅力が顕著であり、それと同時に計算された作品は、大竹の撮る後年のスナップ的ポートレートの片鱗(へんりん)をもうかがわせている。これらの写真が中心となって、後に『遥かなる詩』(1983)として出版されている。
20歳の時に上海(シャンハイ)に渡り、対外宣伝誌『コマース・ジャパン』の撮影を担当したり、憲兵司令部や北京(ペキン)大使館報道部付カメラマンとなるなどして、戦時下の多くのカメラマンと同様に対外宣伝のための写真を撮っている。そして第二次世界大戦後は東京の焼け跡を記録撮影する。
1947年(昭和22)には連合国最高司令官総司令部(GHQ)広報部の嘱託となり、アーニーパイル劇場(後の東京宝塚劇場)のカメラマンとして配属されて、駐留兵士の慰問に来るアメリカのダンサーや歌手などの写真を撮っている。1951年から『アサヒカメラ』誌上で、来日する世界の著名な音楽家を撮る連載を開始、この企画は5年間も続き、写真集『世界の音楽家』(1955)として出版される。1956年には女性を撮る写真家たちのグループ「ギネ・グルッペ」が結成され、この創立メンバーとなる。会員には秋山庄太郎、杵島(きじま)隆、中村正也らがいた。このころからヌードや女優などを撮ることが仕事の大半になってゆく。そして1971年には日本テレビ「お昼のワイドショー」で、大竹が主婦やOLのヌードを撮る「美しき裸像の思い出」が企画され、数千人の主婦が応募したことで話題となり、母と子の「ファミリーヌード」を撮るなど、5年間も続くことになった。長年の写真家としての仕事に対して1992年(平成4)、日本写真協会功労賞が授与されている。写真以外にも、テレビ、映画のシナリオや、エッセイなどの分野にも才気を見せた。
[大島 洋]
『『世界の音楽家』(1955・朝日新聞社)』▽『『女の中のおんな』(1969・芸文社)』▽『『ジャネット』(1974・日本カメラ社)』▽『『ファミリーヌード』(1977・朝日ソノラマ)』▽『『昭和元禄101人女の肖像』(1982・講談社)』▽『『昭和写真・全仕事4 大竹省二』(1983・朝日新聞社)』▽『『遥かなる詩』(1983・桐原書店)』▽『『新編 遥かなる詩』(1993・日本カメラ社)』▽『『昭和群像』(1997・日本カメラ社)』▽『『遥かなる鏡』(1998・東京新聞出版局)』▽『加藤哲郎著『昭和の写真家』(1990・晶文社)』▽『岡井耀毅著『瞬間伝説』(1994・KKベストセラーズ)』▽『松本徳春著『写真家のコンタクト探検』(1996・平凡社)』