日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村正也」の意味・わかりやすい解説
中村正也
なかむらまさや
(1926―2001)
写真家。神奈川県横浜市に生まれる。戦後派ヌード写真の第一人者として知られる。初めて写真を撮ったのは7歳のころで、熱心なアマチュア・カメラマンであった父親のライカを持ち出して、庭の花や野菜などを撮った。父親は踏み切りの警報機や集魚灯などの特許を持つ発明家で、1935年(昭和10)ごろには家に掃除機や電気冷蔵庫や電気釜の原型のようなものまであったという。
第二次世界大戦末期の45年に海軍電探学校に入隊したが、戦地に行くことなく敗戦となり、東京工芸高等学校(現千葉大学工学部)写真科に入学する。卒業後48年(昭和23)読売新聞社の写真部に入社して報道カメラマンを志した時期もあったが、適性に欠けていることを早々に自ら認めて半年で退社し、映画世界社に入社する。同社は『映画世界』のほか『映画ファン』『映画之友』を発行していて、写真部長が早田雄二(1916―95)だった。その後、映画スター社や、独立した早田雄二のスタジオにスタッフとして参加したが、この時代に「モダニズムのヌード写真」として形容されることの多い女性写真撮影の腕を磨いていった。当時の女性写真を撮る写真家の多くが、このように映画雑誌のカメラマンからの出発であった。
55年には、坂口安吾とともに旅をし、坂口が文を書き、中村が撮影をする「新日本風土記 坂口安吾」を『中央公論』に連載。56年に石田正子というモデルを撮った一連の写真は「グラマーフォト」(魅力で惑わす女性写真の意味)として大きな話題を呼び、翌57年発表された躍動的なヌード「若い裸」とともに、中村正也の名は新しい感覚の写真家として広く知られるようになる。前年の56年、女性を撮る写真家たちのグループ「ギネ・グルッペ」が結成され、この創立メンバーとなる。会員には秋山庄太郎、杵島(きじま)隆、大竹省二、早田雄二らがいた。それと同時に、翌年に第1回「10人の眼」展が開催され、中村も出品したが、この写真展の参加者に、石元泰博(やすひろ)、東松照明(とうまつしょうめい)、奈良原一高(いっこう)、細江英公(えいこう)、川田喜久治ら、その後の日本の写真を拓いてゆく新しい世代の写真家がいた。このことからも、当時の中村の写真が、それまでの女性のポートレートやヌード写真を撮っていた写真家たちとは一線を画していたことをうかがうことができる。
57年には日本写真批評家協会新人賞を受賞、翌58年には東京・新宿に「マサヤスタジオ」を設け、さらに61年にはデザイナーやコピーライター等のスタッフで構成する総合広告制作会社として発展させる。経営者としても多忙であったが、写真家としても順調で、その独特のモダニズムの写真はファッション写真、雑誌や週刊誌の表紙やグラビアの連載、フランスのプリズマ社からの写真集『Nues Japonaises』(1960)の出版など多方面にわたった。広告制作会社の方は2年後には閉鎖に追い込まれるが、写真家としてはさらに多忙となり、このころからフランスなど海外でヌードを撮ることも多く、「アトリエ」(1963)、「城」(1969)、「フローラ フローラ」(1972)などが発表されている。その一方で一面の植物の中でヌードを撮った「野分け」(1969)や、京都の歴史の刻まれた屋内で撮った「京」(1969)や「粋」(1979)など、日本的なシリーズも展開していく。71年にはアフリカを舞台に、当時の売れっ子モデル杉本エマを使って撮影した『エマ ヌード イン アフリカ――神から盗んだ熱い裸』を発表する。この写真集はダイナミックな構成で、企画としてもスケールの大きなものだったが、中村本人はアフリカの大自然に負け「大失敗」と感じたという。
79年には日本広告写真家協会会長、92年(平成4)同協会顧問に就任した。
[大島 洋]
『『グラマーフォトの写し方』(1958・金園社)』▽『『YOUNG NUDE』(1961・カメラアート社)』▽『『NUDE西と東』(1969・毎日新聞社)』▽『『エマ ヌード イン アフリカ――神から盗んだ熱い裸』(1971・平凡社。改訂版1978・朝日ソノラマ)』▽『『日本の心・粋』(1981・集英社)』▽『『昭和写真・全仕事8 中村正也』(1983・朝日新聞社)』▽『Nues Japonaises (1960, Prisma, Paris)』▽『加藤哲郎著『昭和の写真家』(1990・晶文社)』▽『岡井耀毅著『瞬間伝説』(1994・KKベストセラーズ)』