日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋山庄太郎」の意味・わかりやすい解説
秋山庄太郎
あきやましょうたろう
(1920―2003)
写真家。東京・神田に生まれる。父は青果仲買業を営む石塚富三だが、生まれてすぐ富三の姉の秋山まさの養子となる。母親はいけ花の師匠で、子供のころから花に親しんだ。13歳の時カメラを買ってもらって初めて写真を撮る。中学生時代は身近にいる少女たちを撮りまくったという。1938年(昭和13)、第一早稲田高等学院に入学して写真部に入部。学生時代には女性や子供や花を撮った写真集『翳(かげ)』(1943)を自費出版する。タイトルは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』からとったということだが、これは秋山の写真家としてのその後の活動のすべてを予見するような写真集だった。花や植物のある風景や、画家や子供や猫などの写真も撮っているが、なんといってもその大半はソフトなトーンの女性ポートレートだった。少女から若い女性、そして芸妓や外国の女性、肌を露わにした女性像なども撮られていた。
1943年早稲田大学商学部を卒業後、第二次世界大戦に応召し、中国大陸を転戦するなどして終戦となる。1946年(昭和21)、秋山写真工房を東京・東銀座に開業するが1年ほどで閉鎖となり、近代映画社写真部に友人の林忠彦の紹介で入社する。原節子の熱心なファンで、「原節子さえ撮れたら本望」との思いでの入社だったが、原節子番カメラマンになることができ、映画の撮影所で照明技師のライティングを見るなどして、女性写真を撮る基礎を培ってゆくことになる。同じころ、写真家集団「銀龍社」に入会する。これも林忠彦の紹介であったが、ここで植田正治や緑川洋一らを知ることとなり、「銀龍社」は後に1953年二科会写真部に発展していくことになる。
1951年には近代映画社を退社してフリーの写真家となり、写真集『美貌と裸婦』を出版する。1958年日本広告写真家協会の創立会員となり、1961年の日本広告写真家協会展・ADC賞を受賞する。1959年の雑誌『週刊文春』の表紙撮影を皮切りに、1970年代にかけて『週刊サンケイ』『週刊現代』『週刊ポスト』などの各雑誌の表紙撮影を長期にわたって行い、月刊誌の表紙撮影なども併(あわ)せて、書店の店頭には秋山の撮った女性の写真が並んだ。黒を基調とすることが多いそれらの写真は、一見して秋山の写真であることが判別できるほどで、「表紙写真の秋山」「女性写真の秋山」として広く知られるようになる。女性写真とともに、俳優や小説家、画家などの男性の肖像の雑誌連載などにも活動の場を広げたが、男を撮っても女を撮るのと同様に美しく撮った。そして1971年には日本広告写真家協会会長に就く。
その一方で1965年ごろからは、少年時代のいけ花への関心を生かして花の写真の撮影に取り組むようになり、『花・女』(1970)、『薔薇』(1974)などを刊行する。1980年には同好会「花の会」を結成して自ら会長となって晩年まで花の写真を撮り続け、多くの写真集を刊行している。1982年には日本写真専門学院長に就く。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章。
[大島 洋]
『『美貌と裸婦』(1951・双藝社)』▽『『花・女』(1970・主婦と生活社)』▽『『薔薇』(1974・主婦と生活社)』▽『『おんな』(1976・美術出版社)』▽『『作家の風貌一五九人』(1978・美術出版社)』▽『『秋山庄太郎 美女一〇〇人』(1981・日本写真企画)』▽『『昭和写真・全仕事1 秋山庄太郎』(1982・朝日新聞社)』▽『『花舞台』(1987・日本芸術出版社)』▽『『昭和の美女』(1989・朝日新聞社)』▽『『薔薇よ! Rose365』(1997・集英社)』▽『『女優の肖像』(1997・新潮社)』▽『『秋山庄太郎・自選集』1~3(1999・小学館)』▽『加藤哲郎著『昭和の写真家』(1990・晶文社)』▽『岡井耀毅著『瞬間伝説』(1994・KKベストセラーズ)』▽『松本徳春著『写真家のコンタクト探検』(1996・平凡社)』