大野別符
おおのべつぷ
現玉名市のうち旧高瀬町をはじめ旧弥富村・滑石村・築山村の諸地域および現玉名郡岱明町一帯の菊池川右岸の沖積平野を占めていた筥崎宮(本家石清水八幡宮寺)の半不輸の所領。玉名西郷の一部で、大野庄とも記された。中世文書には(南・北)尾崎村・なへのむら(現岱明町)、(上)築地村・岩崎村・中村・高瀬(中村の内)・狩塚村・河崎名(現玉名市)などがみえ、このほか弘治三年(一五五七)の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書)には、亀甲・中尾・山田(現玉名市)、前原・野口・高道(現岱明町)、西窪などがみえる。当別符の中心地は、玉名郡の中心でもある高瀬(中村の内)であり、荘鎮守と考えられる繁根木八幡宮をはじめ繁根木山寿福寺(天台宗)、当別符初代の地頭と伝えられる紀国隆の法名と同名の高瀬山清源禅寺、真言宗の談議所宝成就寺、時宗道場の願行寺などの存在が南北朝期には確認される。郡衙や式内社疋野神社のあった立願寺も当別符内であった。
成立の時期や経緯は不明であるが、先の大野家由緒書上や大野氏系図(「事蹟通考」所収)には、大野小次郎紀国隆が建久四年(一一九三)四月、大野二五〇町を賜わって関東から下向し地頭となり、繁根木八幡宮の別当でもあったと記している。紀氏は本来郡司系在地領主の可能性が強く、この内容については問題も多いが、「大のゝしたいせうもん」の中に、「けむきう四年の御下文 二つう」があったことから(弘長元年八月一日「紀有隆証文請取状」深江文書)、建久四年に地頭職に補任された可能性は強く、当別符の成立はそれ以前にさかのぼるものとみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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