岩崎村(読み)いわさきむら

日本歴史地名大系 「岩崎村」の解説

岩崎村
いわさきむら

[現在地名]和賀町岩崎

煤孫すすまご村の東に位置し、和賀川南岸の平地と段丘に立地。西部は奥羽山脈東麓山地。中央東寄りを夏油げとう川が北東流して、村内宿しゆくで和賀川に合流する。鎌倉後期の和賀氏系図(鬼柳文書)によれば、和賀景行(行仏)が「梅木郷」ほかを譲られている。当地に地名梅木うめきがあり、同郷の遺称地とされている(北上市史)。鎌倉中期以降は和賀氏が領し岩崎城に拠った(邦内郷村志)。南北朝期、当地でも攻防が行われ、暦応四年(一三四一)同城を守護して北朝方の鬼柳清義などが討死している(貞和四年一一月日「鬼柳義綱陳状写」鬼柳文書)。天正(一五七三―九二)の頃には岩崎城に和賀氏の家臣岩崎弥十郎が拠ったが、同一八年和賀氏とともに没落。慶長五年(一六〇〇)和賀忠親と旧和賀氏家臣らが岩崎城を拠点に和賀稗貫一揆を起こしたが、翌六年南部利直によって平定された(邦内郷村志)。同五年三月二二日の南部利直書状(盛岡竹原文書)、同六年三月二四日の南部利直書状(盛岡池野文書)には「岩崎より」と書かれ、利直が岩崎城包囲の陣中よりしたためたものである。同一五年一〇月一二日の南部利直黒印状(盛岡北家文書)によれば、「梅木村」の九三石余が北松斎領であった。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]湯沢市岩崎

奥羽山脈西側の山すそに発達した村。村の西北に横手盆地が広がり、北は皆瀬みなせ川を隔てて平鹿ひらか仁井田にいだ(現十文字町)、東は皆瀬川を隔てて平鹿郡増田村(現増田町)、山坂越えに同郡戸波となみ(現増田町)、南は成沢なりさわ村、西は二井田にいだ村と境する。

奥羽永慶軍記」によれば、中世末期に小野寺氏の有力家臣に岩崎氏があり、天正一〇年(一五八二)八月、由利衆が小野寺氏を大沢おおさわ(現平鹿郡雄物川町)に攻めた折に小野寺氏の下で働いている。その後文禄二年(一五九三)あるいは同四年に、最上勢の侵入があり、最上氏の支配下に入った。「語伝仙北之次第」には「最上勢押入湯沢落城(中略)次に岩崎落城」とあり、「御年貢取り立て等その日記共の写」(色部文書)に「最上へ渡分」として「岩崎」の名がある。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]玉名市岩崎・高瀬たかせ

村央を繁根木はねぎ川が南流し、北は富尾とみのお村、西は立願寺りゆうがんじ村、南は高瀬町・繁根木村に接する。

嘉元三年(一三〇五)七月九日の関東下知状(深江文書)に「大野別符内岩崎村瑠璃童女跡」がみえ、安富頼泰に安堵されている。頼泰は正和四年(一三一五)当村地頭職を三郎貞泰に譲り(同年八月一三日「安富頼泰所領譲状」同文書)、嘉暦二年(一三二七)貞泰は知行の田地一〇町五反からの銭五貫二五〇文・米四斗二升を宇佐弥勒うさみろく(現大分県宇佐市)へ遣わしている(同年五月二六日「造宇佐弥勒寺米銭送状」同文書)。元弘二年(一三三二)二月一五日に地頭職は貞泰から恩房丸へ譲られたが(「安富貞泰所領譲状」同文書)、知行は難航したらしく、暦応三年(一三四〇)には井上房の濫妨(同年五月二八日「少弐頼尚書下」同文書)、翌年には弾正忠宣兼の妨(同四年四月二〇日「少弐頼尚書下」同文書)を訴え出ている。貞和七年(一三五一)四月三日、安富岩崎孫三郎泰治の訴えにより、当村地頭職の当知行の実否などを調べ注進するよう安富泰重らに宛て足利直冬の命が出され(「忠兼・為性連署奉書」福岡県竹迫文書など)、泰治は同年四月一七日岩崎村地頭職、同村内菅三郎居屋敷一所・南蠣塚畠地二反を安堵されている(「足利直冬下文」深江文書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]宇佐市岩崎

寄藻よりも川を挟み和木わき村・橋津はしづ村の東に位置し、東部を北流する向野むくの川が村の北東端で寄藻川に合流する。文政年中(一八一八―三〇)南鶴田みなみつるだ新田が成立するまでは湾入する周防灘に面していた。もり湾ともよばれたこの海域は寄藻・向野両河川などの流入によって低湿地となっていた。旧森湾に宇佐丘陵の支脈かみなか丘陵が突出する地が当地にあたり、地名もこういった地形に由来するものであろう。蟹洗かにあらい貝部かいべ浜田はまだおき中海なかうみなど海にかかわる地名が残る。封戸ふべ郷内に成立した岩崎庄の遺称地。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]今市市岩崎

西は南流する武子たけし川流域、東は古賀志こがし山塊。中路なかじ宮の下みやのしたなどの集落は西部平坦地の宇都宮に向かう街道沿いに南北に並ぶ。都賀つが郡に属し、北・東は手岡ちようか村。日光山往古社領六十六郷のうちに岩崎郷があり、実相房領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。慶安郷帳に武蔵岩槻藩領として村名がみえ、田一一五石・畑一〇一石余。承応二年(一六五三)徳川家綱によって大猷たいゆう院領として寄進された一村とみられ、以後日光領。寛文六年(一六六六)の検地帳(森山秀樹文書)によれば田二四町七反余・畑七一町五反余・屋敷四町七反余。名請人は寺社を含め一三四人、屋敷九九筆。北部上岩崎村と中・南部の下岩崎村に分れており、文政五年(一八二二)の村明細帳(同文書)では、両村の検地帳各四冊はそれぞれの名主が所持すると記す。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]岐阜市岩崎・岩崎一―三丁目

中福光なかふくみつ村・真福寺しんぷくじ村の北隣にあり、鳥羽とば川が百々どどヶ峰と(二三一・三メートル)を割って流れる。集落は百々ヶ峰の支峰真福寺山の西麓にかたまり、北美濃街道(高富街道)が通る。慶長郷帳に村名がみえ、高七八四石余。関ヶ原の合戦後加藤貞泰(黒野藩)領となったが、慶長一五年(一六一〇)に加納藩領となり、同藩の家中知行渡方帳(森文書)によれば家臣一三名の給地。正保郷帳では幕府領で、田六九七石余・畑八四石余・紙木高一石余・山年貢一石余。元禄元年(一六八八)当地に幕府の陣屋が置かれ、南条則弘が初代代官となり、廩米二〇〇俵であった(岐阜県史)。以後同陣屋の管下にあったが、宝暦九年(一七五九)大垣藩預所となった(同書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]岩崎村岩崎

西は沢辺さわべ村、南東は正道尻しようどうじり村、東は白神しらかみ山地、南西は日本海に面する。村の南を流れる笹内ささない川のほか、脇ノ沢わきのさわ川・風呂ノ沢ふろのさわ川・登々沢ととさわ川が村を貫流して日本海に注ぐ。村名は、海岸近くの弁天べんてん島が岬のように突出することに由来するという(西津軽郡史)。天和三年(一六八三)の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)に岩崎御蔵新田・浜田地子新田・木立地子新田とあり、岩崎村に含まれる地域と推定されるが場所を確定できない。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に高三二二・二四石とあり、うち田方は二九六・八四石とある。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]末吉町岩崎

二之方にのかた村の南、菱田ひしだ川上流左岸の平地を中心に立地。末吉郷七ヵ村の一つで、慶長(一五九六―一六一五)以前は有持ありもち村と中島なかしま村とに分れていたという。両村は岩川いわがわ八ヵ村のうちであった(三国名勝図会)かく村も当村の前身とみられる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では中島村として高八一一石余、有持村として高四八五石余、狢村として高五〇五石余。元禄大隅国絵図ではこれら三ヵ村(村高は同じ)のほかに、「狢村之内拵村」が記され(村高の記載はない)、狢村にカクの訓を付している。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]所沢市山口やまぐち西所沢にしところざわ一丁目・星の宮ほしのみや二丁目

堀之内ほりのうち村の東にあり、南端を柳瀬やなせ川が東流する。狭山丘陵山口谷村の村々の一つで、入間いるま郡山口領に属した(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)の徳川氏関東入国後旗本宇佐美領となったというが未詳(同書)。田園簿では田一二六石余・畑一五〇石で旗本久貝領。以後幕末まで同領。延宝六年(一六七八)の検地帳(岩岡家文書)によれば反別は居屋敷・畑方・芝山とも四七町三反余。化政期の家数六八(風土記稿)。安政二年(一八五五)の家数六六・人数三三九、馬三、瑞岩ずいがん寺除地一石余があった(「組合村々地頭姓名其外書上帳」岩岡家文書)。尾張徳川家の鷹場村で、寛永二一年(一六四四)の所沢と前沢まえざわ(現東京都東久留米市)での鷹狩の際は二五人の人足が徴発された(「前沢御鷹野割留帳」平塚家文書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]八女市岩崎

大島おおじま村の西に位置し、やま川が西に流れる。中世は上妻こうづま庄のうち。文治二年(一一八六)六月二七日の大宰府守護所下文案(上妻文書/鎌倉遺文一)によれば、同年五月六日に「岩崎」など一二ヵ所の地頭職が藤原(上妻)家宗に安堵されている。建仁元年(一二〇一)「上妻石崎」の三六町などに高良こうら(現久留米市)上宮の御供屋一宇五間分の造営役が賦課されている(高良宮造営田数注文)。宝治二年(一二四八)上妻庄のうち蒲原かまはら次郎丸じろうまる名地頭泰房が名主吉田能茂を訴えた裁判の判決で、鎌倉幕府は岩崎八幡別宮および宇佐宮別宮の神田一四町七段などに関しては尋問の後裁決するとしている(同年九月一三日「関東下知状案」室園文書/鎌倉遺文一〇)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]日進町岩崎・岩藤新田いわふじしんでん北新田きたしんでん

南から東にかけて野方のかた本郷ほんごう藤島ふじしまの三村に隣接。北からの岩作やざこ川と東からの岩藤川が村内で合流して岩崎川となり、西南に流れて天白てんぱく川に注ぐ。村は岩崎川の北に開け、その東に枝郷の岩藤新田と北新田がある。村の起源はかなり古く、竹野山たけのさん古墳群や古窯跡がみられる。北部に標高一三〇メートル内外の丘陵があり、村名もその地形から生じたものであろう。丘陵の主峰は竹野山で、その南麓に主要な寺社や城跡を含む中心的集落が形成され、ここを高針たかばり街道が東西に、岩崎街道が南北に通じ、三河境に近い軍事上の要地として小牧・長久手の戦には戦場の一部となった。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]上富田町岩崎

北は朝来あつそ村、西は新庄しんじよう(現田辺市)、南はたいら(現白浜町)、東は富田川を隔て保呂ほろ(現白浜町)。集落は富田川に臨む山麓に散在し、村の東端をかすめて熊野街道大辺路が通る。小名野田のだは平村との境に位置する。「続風土記」に「巌聳えて川に臨める処あり、因りて岩崎の名起る」と記される。中世は生馬堅田いくまかたた庄に含まれ、のち山本氏の支配に属したと思われる。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]豊橋市岩崎町

手洗てあらい村と仁連木にれんぎ村との間に位置する。東海道の北、多米ため村の南にあたる。寛永郷帳では上・下両村に分れていたが、元禄郷帳では一村となっている。「神鳳鈔」に載る岩前いわさき御園をこの地に比定する説もある。中世、岩崎郷とよばれ、応安元年(一三六八)写の仁治三年(一二四二)正月の和田権僧正覚忠覚書(普門寺蔵)に「岩崎之郷」とみえる。建武三年(一三三六)二月六日の後醍醐天皇綸旨(白河結城文書)で結城宗広の所領となり、延元元年(一三三六)四月には顕朝へ、応安二年六月には満朝へ、同四年一〇月氏朝へと伝領された(以上同文書)が、結城氏の没落以後の消息は不明。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]金成町津久毛つくも

大原木おおわらぎ村の北にあり、村域は三迫さんのはさま丘陵を含む。東は小迫おばさま村、北西は平形ひらかた村。古くは岩崎村・長崎ながさき村の二ヵ村に分れていたが、寛永一八年(一六四一)の検地頃から一村になったという(安永風土記)。鎌倉期末とされる二月一三日の僧日道書状(大石寺文書)に「抑御使交名事、三迫ニハ下妻九郎岩崎地頭」とあり、これを当地名の初見とするが未詳。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]黒磯市西岩崎にしいわざき

北は那珂川を隔ててはら村の枝村下半俵しもはんびよう(現那須郡那須町)、西は細竹ほそだけ村、南は亀山かめやま村と入会原野大輪地おおわじ原が広がる。那須野ヶ原北部に位置し、集落は那珂川右岸段丘上にある。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「いわさき」とあり、油井ゆい下厚崎しもあつさきとともで五四石一斗七升。近世は初め那須藩領、寛永二〇年(一六四三)から幕府領。万治元年(一六五八)那須野ヶ原の新田開発を目的に長島ながしま(岩崎堀)が開削され、当村に取入口が設けられた。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]吉井町岩崎

奥平おくだいら村の南東、北は片岡かたおか寺尾てらお(現高崎市)、東は多胡たご馬庭まにわ村、南は同郡吉井村などと接し、かぶら川が南西部を南流する西沢にしざわ(申田川)を合して南境を東流する。甘楽かんら郡に属する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方四〇一石三斗余・畑方三七二石六斗余、田方は旱損とある。鏑川の河原は吉井村の高内であったが、万治二年(一六五九)の洪水以後は当村に属した(延宝六年「鏑川通船停止方訴状」吉井町郷土資料館蔵)


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]田沼町岩崎

はた川中流域の右岸段丘上にあり、東は船越ふなこし村・戸室とむろ村、西は梅園うめぞの村、北は御神楽みかぐら村。慶安郷帳では田一三一石余・畑六七九石余・役一五一石余、朽木稙綱領。日光御用割付(野城勝文書)によれば、元和三年(一六一七)当時岩崎弥右衛門抱屋敷として田畑役御免となっていた。慶安二年(一六四九)から幕府領。寛文元年(一六六一)上野館林藩領となるが天和二年(一六八二)旗本松平・小出(二家)・神谷領などの八給(分郷配当帳)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]六日町岩崎

津久野上つくのかみ新田の南。西は坂戸さかど山、南は山谷やまや村、東は五十沢いかさわ川を挟んで宮村下みやむらしも新田。正保国絵図に村名がみえ、高一〇四石余。天和三年郷帳では高一一六石五斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田八町二反余・畑四町一反余。家数二四、男五〇・女三五、馬四。坂戸山東麓字やまいり岩崎遺跡から土偶・耳飾のほか縄文中・後期の土器・石器が多数出土。字かのえの民家庭先の畑中に径五メートル、高さ約一メートルの円墳状の塚があり、塚上にある高さ七〇センチ、幅二五センチの石碑に「桐沢先祖不二宗廟」と刻される。桐沢但馬守の墳墓と伝える。桐沢但馬守は上田衆の出身で、現大和やまと桐沢きりさわ城にも在城した。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]篠山市岩崎

宇土うど村の東に位置し、南にまきヶ峰連山がある。古くは大沢おおざわ庄のうちで、石前村などと記された。現神戸市兵庫区能福のうふく寺旧蔵の承久四年(一二二二)四月の大般若経奥書に記す「大沢御庄石二門村」の石二門村は石前村の誤記で、イワサキの可能性がある。建武三年(一三三六)一一月一日の足利尊氏御教書写(持明院文書)に「大沢庄内石前・宇土両村」とあり、持明院基盛の女子近衛局に安堵されている。地内に小寺こでらつぼ道心屋敷どうしんやしきつぼ念仏谷ねんぶつたにおくなどの地名がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に岩崎村とみえ、高四四二石余。正保郷帳では田高四一一石余・畠高三一石。


岩崎村
いわさきむら

面積:一七四・三〇平方キロ

青森県の西海岸南端にあり、西は日本海に面し、東と北は深浦ふかうら町に隣接し、南は秋田県山本郡八森はちもり町に連なる。延長三二キロの海岸線に沿い各集落が断続的に連なる。後背地は白神しらかみ山地で、壮年期の急峻な山容をもち、白神岳(一二三一・九メートル)向白神むかいしらかみ(一二四三メートル)などが主峰をなす。山地縁辺部の標式的海岸段丘上に集落が分布する。

当地の発展は南北朝頃と考えられ、南朝方の落人や諸国流人が開拓したという伝承がある。文中二年(一三七三)長慶天皇が津軽外ヶ浜そとがはまに来たとか、後亀山天皇の皇孫タカヒロ王が西浜にしのはまの開拓に従事したとかいわれる(西津軽郡史)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]静岡市岩崎

大井川最上流部に位置し、左岸の河岸段丘に集落がある。南は中野なかの村。右岸に枝郷中山なかやまがある(「駿河記」など)。中世は井河いかわのうちに含まれる。天正七年(一五七九)一〇月二五日の武田家朱印状写(駿河志料)によると、海野弥兵衛尉に新恩分として下井河の「上井川岩崎」内の二貫六〇〇文の地が与えられた。同一〇年一一月一五日に作成された海野元定領年貢帳(海野文書)に「岩崎分」とみえる。近世は井川郷(井川七郷)の一村。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。元禄郷帳では高一八石余。承応二年(一六五三)の家屋敷并人馬鉄砲数改(海野文書)によれば居屋敷一五・人数九三、鉄砲六。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]小牧市岩崎

村内中央にある岩崎山を囲むように、東部の町屋まちや、中部の山前やままえ、西部の新田からなっている。南は小牧原こまきはら新田、北は久保一色くぼいしき村と接しており、地区の東側に新木津しんこつつ用水が、また西側には木津用水が流れている。「家忠日記」の天正一二年(一五八四)四月八日条に「岩崎筋へ家康へ出仕候」とある。町屋は江戸時代、木曾街道沿いに岩崎村の支村として成立したところで、商家が並び、とくに藤の棚(県指定天然記念物)で知られる清流せいりゆう亭は、街道沿いの茶屋として繁盛した。字藤塚ふじづかの旧道横には一里塚が残っている。

「御国産吟味之留」に「岩崎石 岩崎村より出」とある。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]稲築町岩崎

山田やまだ川を境にして東は鴨生かもお村・ひら村、中央部を遠賀おんが川が北流している。小早川時代の指出前之帳では岩崎村の田二四町九反余(分米一九〇石余)・畠二四町三反(分大豆一〇七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五六五石余、うち大豆二四七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七八七石余(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数八七(うち酒家一・麹家一)・人数四六二、馬七・牛七一(別本「続風土記附録」)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]大宮町岩崎

久慈川の曲流部西岸の河岸段丘上にあり、対岸は久慈郡小貫おぬき村・釜額かまぬか(現山方町)。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に乙王丸分として「久慈西岩崎郷」とみえ、当時は久慈西郡に属した。太閤検地で那珂郡岩崎村となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「岩崎村」とみえる。


岩崎村
いわざきむら

[現在地名]那須町東岩崎ひがしいわざき

南流する奈良なら川右岸の小段丘とそれに続く丘陵麓に位置する。北は唐木田からきだ村、西は沼井ぬまのい村、東・南は伊王野いおうの村。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに岩崎とあり、「大ひら」「よしのめ」「水し内」と合せ高二四二石余(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。近世を通し黒羽藩領。慶安郷帳では田高一三三石余・畑高五三石余。延享四年(一七四七)の検地では反別二六町九反余(伊王野郷土誌)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]津幡町岩崎

倉見くらみ村の東方、津幡川上流右岸の丘陵麓に位置。集落は本村と川原かわらがある(三州地理雑誌)。正保郷帳では高一九二石余、田方七町四反余・畑方五町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二〇〇石、免五ツ五歩、小物成は山役五三匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一〇(高免付給人帳)。享和二年(一八〇二)村全体が地味悪く用水が乏しいほか、山際の水田には雨のとき山土が入込むとして三ヵ年の引免を受けた(「河北郡引免根帳」林文書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]飯岡町岩崎

萩園はぎそね村の北にあり、西方の三川さんがわ村に囲まれるように立地する。慶長七年(一六〇二)の検地により田二町三反余・畑八反余、高二七石余を打出し、この取米三五俵・畑永三〇〇文(「年貢割付写帳」向後家文書)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二七石余で旗本戸田領。同一一年の家数二〇(「愛宕浅間両社事」福蔵寺文書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]市原市南岩崎みなみいわさき

上原うえはら村の南西に位置する。石崎とも。小勝台こがちだいに腰郭などがうかがえ、南岩崎砦と称する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇六石。正保国絵図でも高三〇八石余で、幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数五六、旗本酒井領。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]八鹿町岩崎

大江おおえ村の北東、大江川支流岩崎川の流域山間にあり、南西は坂本さかもと村。鎌倉時代には大恵おおえ保の一村で、国衙領。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には同保内に「岩崎村 四町二百七拾七分」とみえ、「地頭肥塚三郎入道蓮心」の注記があり、田地の内訳は神田小、地頭分一町七反、徴使給一反、公田二丁二反五七歩である。地頭は武蔵国の御家人肥塚氏の一族。大恵保の地頭はもと肥塚三郎で、その没後一族七人で分領したが、岩崎村の地頭はこの肥塚三郎の子息で、大恵保の地頭を分領した一人であろう。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]小矢部市岩崎

なか村の北西、子撫こなで川左岸の稲葉いなば山南西麓に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数六、峠組に属する。正保郷帳では高六六石余、田方二町二反・畑方二町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七九石・免六ツ三歩、小物成は山役四一匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]野津町とまり 岩崎

今俵いまびよう村の東、垣河内かきがわち川北岸にあり、前面に同川によってつくられた平地が広がる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳に村名がみえ、本高三五石余・出来高四石余、田方一九石余・畑方二一石余、日損所と注記される。正保郷帳に村名は記載されず、泊村分に含まれる。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]山北町岩崎

おお川河口右岸に位置し、対岸は府屋ふや町。西は日本海に面する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大河分岩崎村 中」とみえ、本納一斗五升・縄高九石四斗八升八合六勺、家一八軒とある。正保国絵図には「岩ケ崎村」とあり高四二石余。大川では流網という漁法で鮭漁を行い、役米を負担していた。しかし河口に位置する岩崎村・府屋町と上流の村々で漁場境や漁法をめぐる争いがあり、上流の村々から当村側の流網設置場所を湊土手より下流とすること、川幅の半分だけで流網漁を行い、上流へ鮭が上る分を明けて置くことなどを取決めるよう申入れがあった(「鮭流網役米一件内談申入状」平方家文書)


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]寿都郡寿都町字岩崎町・字開進町かいしんちよう・字渡島町としまちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同一四年(一八八一)まで存続した村。中歌なかうた村の南にある。明治四年の海岸通調では「岩崎、十八戸」とある(北海紀行)。同六年の「後志国地誌提要」に岩崎村とみえ、戸数三二・人口二五六、寄留戸数二〇・人口九八で、厳島神社(文化一〇年再建)が祀られる。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]菟田野町大字岩崎

芳野ほうの川西部、古市場ふるいちば村西南方に所在。慶長期(一五九六―一六一五)には古市場村に含まれ、寛永郷帳に「一高八百七石五斗八升壱合 古市場村岩崎村」と併記しているので、この頃から独立分離の兆しがみえるが、高分けをした確かな年代は不詳。


岩崎村
いわさきむら

[現在地名]小坂町無数原むすばら 岩崎

無数原村の北、飛騨川西岸の同川と岩崎谷の合流点段丘上にある。元禄八年(一六九五)の検地帳(小坂町教育委員会蔵)に村名がみえ、高四石余、田二反余・畑九反余、家数三。「飛騨国中案内」によれば免四割四分六厘、家数四、うち百姓三・門屋一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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