大野田村(読み)おおのだむら

日本歴史地名大系 「大野田村」の解説

大野田村
おおのだむら

[現在地名]新城市野田のだ

野田村の西南方につづき、伊那街道に沿う。慶長五年(一六〇〇)以後幕府領であったが、寛永二年(一六二五)から二千石旗本島田成重の領地となり、正徳四年(一七一四)からは同じく二千石の旗本中根正包の領地となり明治に至る。寛永郷帳では一二九石余であるが、このほかに享保元年(一七一六)免状(新城市誌)では一五石余の新田畑が記される。

大野田村
おおのだむら

[現在地名]仙台市大野田・東大野田ひがしおおのだ太子堂たいしどう

富沢とみざわ村の東、名取川左岸で、同川支流のざる川との間に広がる自然堤防上に立地する。東端を奥州街道が南北に縦断する。四周を川に囲まれ、東は郡山こおりやま村、北は平岡ひらおか村。古代の陸奥国府に至るあずま海道栗木くりき渡で名取川を渡る道のほか、南の柳生やなぎう村から同川を渡り当村の宿在家しゆくざいけ王の壇おうのだん古墳の前を通って根岸ねぎし村に出る道があった(西多賀郷土史物語)正保郷帳に田四六貫三八八文・畑一一貫四四五文とある。幕末と思われる村毎貫高付(斎藤報恩会蔵)では五二貫四七二文。「封内風土記」によると戸数四五。「名取郡地誌」によると明治一〇年(一八七七)頃の戸数八二、男二八三・女二三九、馬二四。

大野田村
おおのたむら

[現在地名]安曇村大野田

大明神だいみようじん山を背負い、あずさ川左岸段丘上に立地。初見は文禄年代(一五九二―九六)成立の筑摩安曇両郡郷村御朱印高附帳で「弐石壱斗七合 大野田村」とある。慶安四年(一六五一)検地帳によると、畑二町七段余(うち麻畑二段三畝)、田が一段歩、本百姓五軒、門百姓四軒、高一四・八石で、それ以後耕地は余り増加していないが、安政二年(一八五五)家数は四〇軒、人口一九六人に増加。主として山仕事で生計を立て、幕末には養蚕業を副業としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報