天川恵三郎(読み)アマカワ ケイザブロウ

20世紀日本人名事典 「天川恵三郎」の解説

天川 恵三郎
アマカワ ケイザブロウ

明治〜昭和期のアイヌ指導者



生年
元治1年12月(1864年)

没年
昭和9(1934)年4月5日

出生地
オタルナイ(現・北海道小樽市)

別名
アイヌ民族名=イサラ

学歴〔年〕
量徳学校卒

経歴
明治6年開設されたばかりの小樽・量徳学校にアイヌ出身の4人の生徒の中の1人として入学、第1期生49人の首席で卒業する。13年アイヌは衛生上防火上好ましくないと小樽郡から強制移住させられたのを皮切りに、6年後に浜益郡下川村、33年北海道旧土人保護法の施行により浜益郡実田村に転居させられるなど、北海道開拓の進展と共に居住地を追われた。同年旭川近文のアイヌ居住地が北海道庁長官の命令により大倉財閥に与えられるという事件が起こると、請われてアイヌ移転取り消し運動の先頭に立ち、中央政界やジャーナリズムに働きかけるなどしてその取り消しを勝ち取った。その後、アイヌ居住地をめぐる利権紛争などに巻き込まれ、樺太逃亡を余儀なくされた。のち浜益郡に戻って農業振興に努め、模範部落として村民から“天恵部落”と呼ばれた。また若い頃から熊狩りの名人としても知られ、昭和9年札幌放送局に招かれてラジオの全国放送に出演し「アイヌの熊獲り」の講演を行ったが、その晩に札幌までの40キロに渡る雪道を踏破したことが元で急性肺炎に倒れ、同地で客死した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天川恵三郎」の解説

天川恵三郎 あまかわ-けいざぶろう

1864-1934 明治-昭和時代前期の社会運動家。
元治(げんじ)元年生まれ。アイヌの指導者。アイヌ差別に抵抗し,明治33年の第1次旭川アイヌ給与地紛争事件の解決のために奔走。北海道庁の不正をただし,アイヌ給与地を大倉財閥にはらいさげる許可をとりけさせた。昭和9年4月5日死去。71歳。オタルナイ(小樽)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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