奥河内村(読み)おくがわちむら

日本歴史地名大系 「奥河内村」の解説

奥河内村
おくがわちむら

[現在地名]日和佐町奥河内

日和佐浦の西に位置し、南に奥潟おくがた川、北を日和佐川が東流する。長享三年(一四八九)一〇月二日の日和佐広泰譲状(土佐国蠧簡集)にみえる「コ見カタ観音寺」は奥河内の込潟こめかたに比定される。正保国絵図では「日和佐之内 奥河内村」と記される。明暦四年(一六五八)の棟付帳(「日和佐町郷土誌」所引北村家文書)では家数九六・人数二〇三、船九、庄屋の与三左衛門は持高八五石余となっている。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では日和佐浦の枝村として奥河内村とある。享保一三年(一七二八)検地帳(湯浅家文書)によれば、弁財天べんざいてん山路・奥潟・くしたになどで竿入があり、田六二町五反余(うち上上田四町三反余・中田一〇町五反余などの一一品等)・畠二〇町五反余(うち上上畠七町二反余・上下畠二町三反余・中下畠一町一反余)で、石盛は田方が二斗ずつ下げ(二ツ劣り)、畠は一斗ずつ下げられている。


奥河内村
おくがわちむら

[現在地名]津久見市上青江かみあおえ 奥河内

八戸やと村の北、青江川上流域に位置し、東は下河内しもがわち村。江戸時代は佐伯藩津久見村組を構成する一村であった。津久見村の枝郷とされる(享和三年「郷村仮名付帳」佐伯藩政史料)。慶長六年(一六〇一)臼杵藩と佐伯藩との間で領地交換が行われ、このとき当村は佐伯藩領になったという。寛永一八年(一六四一)臼杵藩領葛畑かずらはた村との間に起こった刈畑・炭焼の利権をめぐる山論はこの領地交換に起因するとされ(延享二年「奥河内山林之儀取遣一件」同史料)、延享四年(一七四七)幕府の裁定により決着するまで一〇〇年余りにわたって続いた(「奥河内論所裁許絵図并裁許状」同史料)


奥河内村
おくごうちむら

[現在地名]西淡町志知奥しちおく

口河内くちごうち村の南、しん川の源流域、西淡丘陵南東部の山間村。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「かわち郷」は当村と口河内村に比定される。阿那賀あなが浦からいち(現三原町)に至る道が通る。正保国絵図に奥河内村とみえ、高一四三石余。天保郷帳では高一五九石余。反別戸数取調書では反別一九町七反余、高二四三石余、うち蔵入地高四三石余、高一九九石余は長江刑部ら六名の給知、家数四一・人数一九五。湊組に所属。新川水源間河瀬まがせ(曲瀬)池と道添みちぞえ池。


奥河内村
おくかわちむら

[現在地名]度会町小川おがわ 奥河内

木越きごし村の西、一之瀬いちのせ川支流西山にしやま川の谷に沿う小段丘上にある。慶安郷帳(明大刑博蔵)では村高七七石一斗余のうち田方四四石九斗余・畑方三二石二斗余。文禄検地帳(度会町史)と、元禄一三年(一七〇〇)、宝永六年(一七〇九)・同七年、正徳二年(一七一二)の検地帳(徳川林政史蔵)が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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