日本大百科全書(ニッポニカ) 「孫平化」の意味・わかりやすい解説
孫平化
そんへいか / スンピンフア
(1917―1997)
中国の政治家。本名は斉守福(さいしゅふく)。日本語が堪能な中国きっての知日派として知られた。奉天(ほうてん)省蓋平(現遼寧(りょうねい)省瀋陽(しんよう)市)出身。中日友好協会の第3代会長。中国人民政治協商会議全国委員会(全国政協)委員を務めた。当時の首相周恩来(しゅうおんらい)に近い、知日派の代表格であった廖承志(りょうしょうし)のもとで、一貫して対日工作を行っていた「三羽烏(さんばがらす)」(ほかは蕭向前(しょうこうぜん)・王暁雲(おうぎょううん))の一人であった。
第二次世界大戦前は「満州国」の経済部に勤務した。1939年(昭和14)蔵前工業専門学校予科(現東京工業大学)に入学したが、1943年に中退して帰国する。1944年中国共産党に入党し、旧満州(現東北三省)で地下活動に専心した。中華人民共和国成立後の1955年(昭和30)3月、中国共産党貿易代表団副秘書長として来日。以後、各種の訪日団に参加し、しばしば来日する。また、1959年自民党代議士の松村謙三が初めて訪中した際には主任随行員を務めた。1964年8月、「東京駐在廖承志連絡事務所」主席代表として来日し、廖承志と高碕達之助による「LT貿易」に従事した。文化大革命期(1966~1976)の1968年に一時帰国後、消息が途絶えた(五・七幹部学校に送られたといわれる)が、1972年6月に復活を遂げ、翌月周恩来首相の命で上海舞劇団を率いて来日した。同年7月、大平正芳(おおひらまさよし)外相との会談で田中角栄首相に対して中国への公式訪問を要請するなど、日中国交回復に尽力しその架け橋となった。1976年1月、中日友好協会副会長に就任し、1986年5月に会長の座についた。1991年(平成3)、勲一等瑞宝章を授章され、1997年には国際交流基金賞を受賞した。また同年8月に没後、本国では日本をテーマにする中国人学者、研究者を対象にした「孫平化日本学学術奨励基金」が設立された。著書に『中日友好随想録』(邦訳『日本との30年』)がある。
[渋谷 司]
『孫平化著、安藤彦太郎訳『日本との30年――中日友好随想録』(1987・講談社)』▽『孫平化著『中国と日本に橋を架けた男――私の履歴書』(1998・日本経済新聞社)』