中国の政治家。廖仲愷(りょうちゅうがい)と何香凝(かこうぎょう)(女性運動指導者)の息子として東京に生まれる。1925年中国共産党入党。嶺南大学卒業、早稲田(わせだ)大学を1928年(昭和3)中退、ヨーロッパ留学から1932年帰国して逮捕される。釈放後、江西ソビエトに入り、1934年長征に参加、1935年延安で出版局長を務めた。日中戦争中は香港(ホンコン)を中心に活躍。1942~1946年香港で国民党により投獄されていたが、人民共和国成立後は共産党幹部(1956年中央委員など)となり、とくに華僑(かきょう)問題、統一戦線活動を指導。1962年高碕達之助(たかさきたつのすけ)との間に「LT貿易覚書」を締結。1964年以降、中日友好協会会長であった。
[加藤祐三]
07の政治家 中国全国人民代表大会(全人代)常務委副委員長;中国共産党政治局員;中日友好協会会。
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中国の政治家。中国国民党創設の元老の廖仲愷と何香凝(1878-1972)を両親に東京で生まれ,育った。1925年,中国共産党に入党。紅軍の長征に参加したのち,周恩来の指導下に香港で抗日民族統一戦線工作に従事した。新中国成立後は,対日関係および華僑工作の責任者として活躍。62年には,高碕達之助との間に〈LT貿易覚書〉を締結し,日中の結びつきに貢献した。中日友好協会会長として日本人との知友関係が深い。82年,中共中央政治局委員に選ばれ,国家副主席就任を目前にして,急逝した。
執筆者:吉田 富夫
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1908~83.6.10
中国の政治家。国民党元老廖仲愷(ちゅうがい)の子。別名は何柳華。両親が日本へ亡命中に東京で生まれ,1919年帰国。父の暗殺後に再度来日,早稲田大学第一高等学院に入るがのち退校。長征に参加後,35年中国共産党出版局長となり,49年以降,統一戦線部副部長などの要職に就き,高碕達之助とLT貿易を実現。中日友好協会会長・第5期全人代副委員長も務めた。
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…この第2の原則に基づき,友好貿易という形でいわゆる〈友好商社〉が日本側の窓口になり,日中貿易をその後担っていくことになる。62年11月,高碕達之助と廖承志(りようしようし)との間で,長期,総合,バーター(バーター貿易),延払い(延払輸出)を基本とする〈日中総合貿易に関する覚書〉が取り交わされ,廖,高碕の頭文字をとったLT貿易が始まった。これは先の第1の貿易原則である政府間協定ではないが,それに準ずる(準政府ベース)取決めであった。…
…1924年以降も中国国民党の農民部長,工人部長,黄埔軍官学校代表,広東省長を歴任,孫文死後は国民党左派の指導者として新三民主義政策を堅持したが,右派のため暗殺された。夫人の何香凝(かこうぎよう)女史も同盟会,国民党で活躍した婦人革命家であり,中国日本友好協会会長,中国共産党政治局委員をつとめた廖承志はその子である。【久保田 文次】。…
※「廖承志」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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