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日中関係 にっちゅうかんけい

知恵蔵の解説

日中関係

1972年9月に国交を樹立した日本と中国は、78年8月には日中平和友好条約を締結し、緊密な関係が強化された。しかし、2005年4月の一連の反日デモにみられたように、日中両国の社会的・経済的格差や、日中戦争の不幸な過去を引きずって今日に至っており、しばしば深刻な摩擦も生じている。73年夏の「東京裁判」問題、82年夏の教科書問題、85年夏の靖国神社問題や86年秋の「藤尾文相発言」などである。京都の中国人留学生寮をめぐる中台間の係争に基づく光華寮問題(大阪高裁が78年2月、同寮の所有権を台湾側に認めたために問題化した)も発生した。91年8月には海部首相が訪中し、翌92年4月には江沢民(チアン・ツォーミン)総書記が、日中国交20周年記念の一環として来日した。92年秋、宮沢内閣は中国から再三要請のあった天皇訪中を実現。94年5月には羽田内閣の永野法相が「南京大虐殺」発言で、同年8月には村山内閣の桜井環境庁長官が「侵略戦争否定」発言で辞任。94年秋の広島アジア大会への台湾代表・徐立徳行政院副院長の来日に中国が抗議。94年12月には第4次円借款(前半3年間で5800億円)を決定していたが、95年5月、村山首相の訪中直後に再び地下核実験を行い、同年8月にも強行したために、日本政府は対中国無償資金協力を大幅に削減した。また96年夏以降、尖閣諸島問題が再燃するなど、日中関係の内面には、波乱が多い。97年9月には、日中国交25周年を記念して橋本首相が訪中、日米防衛協力ガイドラインや、日本の周辺有事の範囲に台湾海峡が含まれるか否かについて、双方に見解の隔たりはあったが、「対話と協力」をベースに日中関係の調整が図られた。日中平和友好条約20周年を記念する予定だった98年8月の江沢民主席の訪日は同年11月に実現したが、「歴史認識」や台湾問題を繰り返す江沢民主席への日本の世論は冷たく、99年7月の小渕首相の訪中は短時日のものに終わった。2000年になると、中国の一連の軍事力増強や日本近海での中国艦船の航行などから、中国への円借款などODAを見直すべしとの意見が日本国内に高まり、中国の経済発展もあって、対中円借款は08年に停止することとなった。01年には李登輝(リー・トンホイ)台湾前総統の訪日や、教科書問題の再燃、同年夏には小泉首相の靖国神社参拝問題が起こった。02年5月には瀋陽総領事館事件が発生。04年夏のサッカー・アジア杯に見られた反日ムードは、翌05年4月の北京、上海などで起こった大規模な反日デモに発展した。東シナ海での春暁ガス田、天外天ガス田をめぐる領海紛争など、日中関係には曲折が多い。中国は、靖国神社を参拝する小泉首相を政権発足当初から非難し、06年8月15日に靖国参拝した小泉首相の訪中は実現しなかった。しかし、「政冷経熱」といわれたように、経済面での日中関係は活発で、05年の香港を含む中国との貿易総額は対米貿易額をしのいでいる。06年10月には安倍首相が電撃的に訪中し、日中間の「戦略的互恵」関係を固めた。07年12月には、4月に来日した温家宝(ウォン・チアパオ)首相に応えて福田首相が訪中、日中の外交関係は改善されたが、中国からの「毒入りギョーザ」の問題などもあって、日中関係には依然として問題が多い。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

日中関係

1998年11月、江沢民(チアン・ツォーミン)国家主席が初めて日本を公式訪問し、日中共同宣言を発表したが、江主席が示した歴史認識で、日中関係には齟齬(そご)が目立った。2001年に小泉政権が登場したが、首相の靖国神社参拝問題により関係はさらに悪化し、中国の軍拡、台湾問題、尖閣諸島問題、東シナ海のガス田開発問題も加わり、国交回復以来最悪といわれる事態が続いた。01年10月8日、小泉首相が訪中し、盧溝橋を訪問して「お詫び」を表明、江主席、朱首相と会談した。02年10月、共産党大会において胡錦濤(フー・チンタオ)国家副主席が総書記に選出され、03年3月の全国人民代表大会で国家主席に選出された。胡主席は就任早々SARS(重症急性呼吸器症候群)対策に忙殺され、4月に菅直人民主党党首との会談がもたれたものの対日関係は足踏みした。胡主席は、5月下旬のロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念式典と、新たに招待された6月上旬のエビアン・サミットを舞台に活動を開始した。5月31日、サンクトペテルブルクで胡主席と小泉首相の首脳会談が開かれ、中国側は拉致(らち)問題の解決を支持すると表明、注目された靖国参拝問題には言及しなかった。また日中平和友好条約締結25周年にあたるため、8月9日に北京で記念行事が開かれ、村山・橋本両元首相らが出席し胡主席らと会談した。10月7日、バリ島でのASEAN+3会合において小泉首相は温家宝(ウェン・チアパオ)中国首相、盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領と会談し、東アジアの平和と安定に寄与する未来志向の地域協力をうたった3国の共同宣言を発表。10月20日には、バンコクのAPEC首脳会議に際して胡主席と会談し、北朝鮮問題を話し合った。しかし、04年1月1日小泉首相は靖国神社を参拝、それ以降外交関係は悪化の方向をたどった。1つ目は中国での反日運動であり、04年7〜8月中国で開催されたサッカー・アジアカップで、日本人観客が嫌がらせを受けたことで注目され、05年4月9日にはまず北京で、ついで16日には上海で数万人規模の反日デモが起きた。その後、当局の取り締まりが強化されたため表面上は沈静化しているものの、再燃する可能性を秘めている。2つ目は靖国参拝問題などで首脳外交が停滞し続けたことである。首脳会談は04年11月22日チリでのAPEC会合の際と、05年4月の反日デモ以後の23日にインドネシアで持たれた。中国側が靖国参拝を中止するよう要求するなか、10月17日小泉首相は5度目の靖国神社参拝を行い、関係は決定的に悪化した。11月中旬釜山でのAPEC首脳会議、12月中旬マレーシアでの東アジアサミットでも首脳会談は行われなかった。06年に入り、閣僚や自民党首脳が中国を訪問しても事態は好転せず、日中関係は最悪の関係にあった。 06年9月安倍晋三首相が誕生すると、10月上旬中国を訪問し、胡錦濤主席らと会談し、「政治」と「経済」という2つの車輪をそれぞれ力強く作動させ、日中関係を高度の次元に高めつつ、全世界の課題の解決に共に取り組む「戦略的互恵関係」を築き上げていくことで一致し、関係を好転する契機となった。07年4月温家宝首相が来日、「戦略的互恵関係」の構築に沿って、個別的な問題につき協議した。その中の1つに、日中ハイレベル経済対話の設置がある。07年9月福田康夫首相が誕生し、12月末、中国を訪問し、胡錦濤主席、温家宝首相らと会談した。中国側は福田首相の東アジア重視の姿勢を評価し、異例ともいえる歓迎ぶりをみせた。会談では、日本側は気候変動などの地球環境問題への中国の積極的な取り組みを要請し、また台湾問題では従来の立場を堅持すると言明し、一方的な現状変更は支持できない旨も表明した。さらに08年春の胡錦濤国家主席の来日でも合意した。しかし懸案である東シナ海での資源開発問題では合意をみず、継続課題とされた。日中関係は長い冬の時代を経て、着実に関係改善の方向に向かっているといえよう。

(高橋進 東京大学大学院法学政治学研究科教授 / 2008年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日中関係
にっちゅうかんけい

本項では、日本と、1949年に成立した中華人民共和国との関係を述べる。それ以前の日中両国関係の歴史については「日中交渉史」の項を参照されたい。

日中関係の位相

日本と中華人民共和国は、1972年(昭和47)9月に歴史的な国交樹立を達成し、日中関係は、長い不幸な出会いののちに、正常な国家関係を形成した。その後、外交、経済、文化など各分野の交流が大きく進展し、日中関係は現在、日中両国にとって、重要な国際関係になっている。国交樹立当時、日本には、いわゆる中国ブームが沸き起こり、「同文同種」という親近感もあって、中国という巨大で深遠な対象を、とかく安易に考える風潮も存在していた。日中両民族は歴史的にも民族的にも「同文同種」であることには違いないが、今日の日中両民族はかなり異質であり、日中両国の社会的環境はあまりにも異なっている。このようなことを考えると、日本と中国は、アジアにおける宿命的な「異母兄弟」なのだというべきであり、歴史的にも、文化的にも、民族的にも、また地理的にも相互の摩擦が運命的に生じやすい固有な関係にあるといえよう。[中嶋嶺雄]

日中関係の時期区分

さて、日中関係はこのように特殊な位相にあるのだが、ここでは次に、中華人民共和国の成立以後の日中関係史を回顧してみよう。
 1949年の中華人民共和国の成立以来、1972年(昭和47)の日中国交の樹立を経て今日に至る日中関係史は、10の時期に区分することができる。
 すなわち、第1期は、中華人民共和国が成立した1949年から、サンフランシスコ対日講和条約が発効した1952年までの戦後日中関係の草創期である。
 第2期は、中国側の対日態度の緩和によって日中関係が新時代に入った1953年から、中国の国内政治に重大な転換(「百家争鳴」運動から反右派闘争への転換)がもたらされた1957年6月を境とする同年前半まで。
 第3期は、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)路線による中国の国内政治パターンの高揚期となった1957年後半以降、翌1958年5月の長崎における中国国旗引き下ろし事件を契機にして日中関係が断絶していた1962年前半まで。
 第4期は、日中間のいわゆるLT貿易関係が成立する1962年後半から、中国に文化大革命が開幕する以前の1965年前半まで。
 第5期は、1965年後半の文化大革命開幕から、1969年の九全大会を経て、中国の国連参加が実現した1971年秋まで。
 第6期は、こうして中国が名実ともに国際社会の有力な一員となった1971年秋から、翌1972年のニクソン訪中にみられる国際関係の大きな変動を経て、同年9月の日中国交樹立に至る時期。
 第7期は、1972年9月の日中国交樹立以降、日中関係の急速な展開のなかで、1978年8月に日中平和友好条約が締結されるまでの時期。
 第8期は、1978年夏の日中平和友好条約締結以降、1989年6月の第二次天安門事件によって日中関係に曲折が生じるまでの時期。
 第9期は、天安門事件による対中国制裁が発動されてから、その解除を経て、1990年代以降ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊するなかで、いわゆる「改革・開放」政策によって中国の経済発展が著しくなり、国際的にも「強大な中国」となって2009年10月の建国60周年を迎えた時期である。
 第10期は、2010年夏に中国のGDP(国内総生産)が日本を追い抜いて世界第二の経済大国となり、2012年には日中国交樹立40周年を迎えるまでの時期である。
 以上の時期区分ののちに、ここでは、それぞれの時期の特徴と問題点を指摘してみたい。[中嶋嶺雄]

「日本人民の反米闘争」支援の時期

まず第1期については、1950年2月に調印された中ソ友好同盟相互援助条約こそ、中国側からみて、日中関係を規定する基本的な要因であった。この条約の第1条では、日本の軍事的復活に対する中ソの相互防衛が規定されていたからである。一方、戦後日本の対外的選択は、1951年(昭和26)9月に調印されたサンフランシスコ講和条約ならびに日米安全保障条約と、翌1952年4月、台湾の蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)政権との間に結んだ日華平和条約によって行われ、ここに戦後日中関係の基本構造が形成された。この時期の中国は朝鮮戦争に当面して臨戦体制をとり続けていたのであり、中国の対日姿勢は、もっぱら「日本人民の反米闘争」を支援する方向に傾いていった。やがて、サンフランシスコ対日講和の調印が日程に上るや、この条約の不当性を非難する中国の姿勢がますます強化された。
 こうしたなかで、日中交流の細い糸をつないでいたのは日中貿易である。しかし、朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)後のアメリカによる対中国禁輸措置のため、1951~1952年になると日中貿易はほとんど断絶に等しくなってしまった。このようなとき、1952年6月、中国を訪問した3名の国会議員は、中国との最初の民間貿易協定に調印し、ここに第一次日中貿易協定が成立した。[中嶋嶺雄]

「積み上げ方式」による日中緩和

第2期は、日中関係が従来の緊張から大きく緩和し、いわゆる「積み上げ方式」による日中間の交流が著しく進展した時期であった。1953年の朝鮮戦争停戦協定、1954年の平和五原則を経て、中国は従来と大きく異なる対日姿勢を示し、日中交流を積極的に呼びかけてきた。
 以上のような背景をもって展開された日中関係正常化の呼びかけに対し、日本側の反応はこれに全面的に対応しようとするものではなかった。鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣は、中国側をあえて刺激する言動を極力避けようとし、民間の日中交流を側面から見守る態度をとり続けはしたが、結局、中国側の期待する対応を示すことはなかった。1956年(昭和31)12月、石橋湛山(いしばしたんざん)内閣が成立、中国側は石橋内閣を大いに歓迎する姿勢を示したものの、当の石橋内閣は短命に終わり、1957年2月に岸信介(きしのぶすけ)内閣が誕生すると、中国側はきわめて警戒的な姿勢を示し始めた。しかもこの時期が、中国の内政上の「百花斉放(ひゃっかせいほう)・百家争鳴」運動から反右派闘争への転換と重なっていたことは、中国側のその後の姿勢を決定づけていった。この間の日中関係はいわゆる「積み上げ方式」を基調としたものであり、1955年5月には第三次貿易協定が東京で調印された。第三次協定によって日中貿易はさらに進展し、1955年11月には日中輸出入組合が設立され、見本市も東京、大阪、北京(ぺキン)、上海(シャンハイ)で開かれるようになった。[中嶋嶺雄]

岸内閣と日中関係

第3期は、中国の対日姿勢が著しく強硬化し、日中関係が全面的に断絶した時期である。1958年(昭和33)3月、第四次貿易協定が成立したが、中国側は台湾の蒋介石政権に親近感を示す岸内閣に対する激しい非難を開始した。こうしたなかで1958年5月2日、長崎の中国切手剪紙(きりがみ)展で発生したのが、一右翼青年による中国国旗引き下ろし事件である。中国側はこの事件を中国に対する侮辱・挑発だとして岸内閣の責任を激しく非難し、あらゆる日中関係を断絶してしまった。
 以後、中国は、日本社会党、日本共産党を中心とする日本の革新勢力をふたたび強く支援激励するとともに、従来の「積み上げ方式」にかわって、対日政治三原則を日中正常化の基本政策として打ち出してきた。この政治三原則とは、
(1)中国敵視政策を改める
(2)二つの中国をつくる陰謀に加わらない
(3)日中両国の国交正常化を妨げない
というものであり、この原則は日中国交樹立に至るまで、中国側の基本的な対日姿勢となった。このころから中国は、「日本軍国主義復活」を説き始め、同時に1957年の勤評闘争、翌1958年の警職法反対闘争を経て、1960年の安保闘争に至る日本の反体制運動をきわめて高く評価し、連日、日米安保反対のキャンペーンを展開した。
 ところで1960年7月、池田勇人(いけだはやと)内閣が誕生すると、中国は一時、池田内閣を慎重に見守っていたが、やがて池田内閣に対しても批判を行うようになった。そして1960年8月、中国側は新しい対日貿易原則を提示するに至った。それは、
(1)政府間協定
(2)民間契約
(3)個別的な配慮取引
という「貿易三原則」で、やがて民間契約による「友好貿易」が1960年11月以降拡大され、1961年には中国が指定する友好商社の範囲も拡大し、2年半の日中貿易断絶のあとにこのような友好商社方式が実現した。[中嶋嶺雄]

LT貿易と日中交流

第4期は、中国にとって「大躍進」政策挫折(ざせつ)後の、いわゆる経済調整期にあたり、対外的には中ソ対立の激化によって印象づけられるが、日中関係においてはLT貿易が開始され、ふたたび日中間の交流が活発になった時期である。
 1962年(昭和37)9月、自民党の松村謙三一行は周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相と会談し、高碕達之助(たかさきたつのすけ)を団長とする経済使節団も訪中した。同年11月には、高碕団長と廖承志(りょうしょうし/リヤオチョンチー)中国アジア・アフリカ連帯委員会主席との間で日中相互貿易に関する覚書が交わされ、1958年の日中関係の断絶以来、実に4年半ぶりで日中間の正常な貿易が再開されることになった。この覚書に基づく貿易(日中双方代表のイニシアルをとってLT貿易という)を軸に日中交流は拡大し、春秋二度にわたる広州交易会への日本からの大規模な参加、北京・上海における日本工業展覧会開催なども実現した。1964年4月には、日中記者交換、貿易連絡所の相互設置が取り決められた。
 このように日中関係が好転し日中貿易が拡大するなかで登場してきたのが、日本政府資金による長期延べ払いを認めない旨を1964年5月に吉田茂元首相が台湾の蒋介石政権に約束したといわれる「吉田書簡」の問題であった。
 1964年11月、池田内閣にかわって佐藤栄作内閣が成立すると、中国側は、佐藤政権批判を開始し、翌1965年1月、訪米した佐藤首相が日米共同声明で、日本政府の対中国基本姿勢はいわゆる「政経分離」にあることを示し、対中国向けプラント輸出に輸出入銀行の利用を認めなかったため、中国側の佐藤内閣非難はますます激しくなった。[中嶋嶺雄]

政経不可分と佐藤内閣

第5期は、いわゆる文化大革命によって、中国が建国以来最大の政治的・社会的激動を経験した時期であり、文化大革命の波紋が日中関係にも大きく及び、日本商社員のスパイ容疑による逮捕、日本人記者の国外追放などの「造反外交」が日中関係にも大きく影響した。
 しかもこの時期の日中関係で重要な問題は、日中友好関係の一つの柱でもあった日本共産党と中国共産党とが、1966年(昭和41)春の宮本顕治・毛沢東会談以降決定的な対立状況に陥ったことである。その影響で日本における日中友好運動にもさまざまな対立や分裂が生じ、親中国グループは日中友好協会正統本部を結成した。この混乱は、日本の友好貿易業界や文化団体などにも波及した。
 1967年11月には佐藤首相がふたたび訪米し、日米共同声明で「中国の脅威」と、これに対処するための日米協力を表明したが、LT貿易は協定期間を1年に短縮しつつ継続された。LT貿易は、1968年から日中覚書貿易と呼称変更されたが、日中貿易は中国の対外貿易のなかでは第1位のシェアを占めるに至った。もっとも、その日中貿易のなかでは「友好貿易」が占める比重はますます大きくなり、日本側は覚書貿易協定の調印に関して、中国側の主張をほぼそのまま受け入れることとなった。1969年4月の覚書貿易協定に関する共同コミュニケには、日米安保条約と日華平和条約を非難する趣旨が盛り込まれ、さらに1970年4月、周恩来首相は、台湾に進出している企業や韓国に投資している企業は貿易相手として受け入れないことなどを示した、いわゆる「周恩来四条件」を打ち出した。
 1970年10月、沖縄返還交渉のために訪米した佐藤首相とニクソン大統領との日米共同声明に対しては、中国側はこれに鋭く反発、「米日反動派の罪悪的陰謀」「日本軍国主義復活」を中国の対日批判の主要な基調として、連日、激しい批判が展開された。尖閣諸島(せんかくしょとう)の領有権をめぐって対日批判が高まったのもこのときである。
 中国の批判は、佐藤政府に対してますますエスカレートしていったが、同時に日本国内には日中国交による日中関係の正常化を求める声が、マスコミのキャンペーンを中心に一段と高まった。とくに1971年の「ニクソン・ショック」によって知られる米中接近への決定的な転換と、同年秋の中国の国連参加によって、日中正常化への動きは日本国内において急速に高まり、また、日本の大手企業のなかには、「周恩来四条件」を受け入れるものが続出した。[中嶋嶺雄]

日中国交樹立

1972年(昭和47)7月、日本に田中角栄内閣が成立したが、周恩来首相は田中内閣を大いに歓迎する旨を発言、従来の佐藤政府に対してとっていた態度から急激に転換した姿勢を示し始め、日中国交樹立に中国側もきわめて積極的になっていた。こうした状況を背景にして、1972年9月29日、日中両国は歴史的な日中国交を樹立した。訪中した田中首相、大平外相一行は、毛沢東、周恩来ら中国側首脳との会談ののちに、国交樹立のための日中共同声明に署名した。
 一方、日本と台湾との関係は、日中共同声明と、「日中関係正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められる」という大平外相の公式談話によって公的には断絶した。
 以後、台湾との関係は、亜東関係協会(台湾側)と交流協会(日本側)という双方民間レベルの窓口を通ずる関係に格下げされ、経済・文化などの交流にとどまっているが、国際的孤立のなかでの台湾の奇跡的な経済上の成功もあって、日台関係はなお日本の重要な国際関係として存続している。
 さて、日中国交正常化以後、日中関係が大きく進展したのは当然であった。日中貿易協定(1974年1月)、日中記者交換覚書(同)、日中航空協定(同年4月)、日中海運協定(同年11月)、日中漁業協定(1975年8月)、日中長期貿易取り決め(1978年2月)、日中科学技術協定(1980年5月)などの政府間諸協定・取り決めも相次いで調印され、1979年12月の大平首相訪中によって総額約15億米ドルの対中円借款も供与されることとなり、翌1980年からは日中定期閣僚会議も開かれるようになった。[中嶋嶺雄]

中国の現代化と日中関係

もとより日中両国の間には、尖閣諸島の領有権をめぐる角逐や、中国の経済調整による1981年(昭和56)初頭以来の対日プラント・キャンセル問題、宝山製鉄所建設をめぐる日中間のトラブルなどが生じ、日中関係がすべてにおいて順調に推移してきたわけではない。
 このような状況のなかでの重要な問題は、1978年8月12日、日本が中国との間に締結した日中平和友好条約であった。この条約では当時の中国の反ソ世界戦略ともみられるいわゆる「覇権」条項が取り入れられた。日本政府は、「覇権」条項は特定の国(つまり当時のソ連)をさすものではないとの解釈をとったが、結果的にソ連を大いに刺激し、以後、日ソ関係はさらに悪化した。日中平和友好条約の締結が日中関係を強化させた反面、逆にソ連のアジア戦略を拡大させ、アジアの緊張を高めたことは否めない。
 こうしたなかで、1978年末の中国共産党第11期三中全会で、小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)らの「四つの現代化」路線が優位を占めた中国は、やがて1981年6月の同六中全会で華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)体制を切り崩し、中国の現代化政策とリンクした日中関係がしだいに形成されていった。1970年代末から1980年代前半にかけては、小平、華国鋒、趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)、胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)ら中国首脳の訪日が相次ぎ、日本からも歴代首相が訪中するようになった。
 しかし、1982年夏には、いわゆる「教科書問題」で中国側は激しく日本「軍国主義」批判を行い、1983年夏には「東京裁判」問題で、1985年夏には「靖国神社(やすくにじんじゃ)問題」で、さらに1986年秋にはいわゆる「藤尾発言」で対日批判を行うなど、日中友好関係の陰の部分で中国側はしばしばイデオロギー的な対日批判を展開しており、日本政府はこれに対してつねに中国に「謝罪」する形で事態を収拾している。一方、中国側の経済改革路線、とくに対外開放政策のつまずきもあって、日中貿易や各種日中合弁企業にも問題が生じていた。1987年初頭には、日中友好関係や日中青年交流の先頭にたってきた胡耀邦・中国共産党総書記が、日本やアメリカとの過度の接近を好まないいわゆる保守派・原則派の圧力によって解任され、その親日ぶりが批判され、日中両国にとっての一つの試練になった。[中嶋嶺雄]

「改革・開放」体制下の日中関係

1980年代後半からの日中関係は、経済交流を中心に着実に推移してきた。1988年(昭和63)8月、日中投資保護協定が調印され、これを機に日本の対中投資を促進するための窓口機関である日中投資促進機構設立の準備も始まった。このように日中の経済的交流が盛んになるにつれ、中国から日本にやってくる留学生や就学生も急増した。一方、胡耀邦が1989年4月に死去し、それを悼むかたちで沸き起こった民主化要求運動は、同年6月4日の血の日曜日(第二次天安門事件)をもたらし、全世界に衝撃を与えて、西側諸国は一斉に対中国制裁を断行した。日本も1988年夏の竹下登首相の訪中によって取り決められた第三次円借款(総額8100億円)を凍結したが、1990年(平成2)秋からは徐々に解除し、1991年8月には海部俊樹(かいふとしき)首相が訪中、翌1992年4月には江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)総書記が来日した。次いで宮沢喜一政権時代の1992年10月には天皇・皇后両陛下の訪中が実現し、1994年末には第四次円借款(前半3年間で5800億円)を決定した。翌1995年5月、村山富市(とみいち)首相の訪中直後と同年8月、中国は地下核実験を強行したため、日本政府は対中国無償資金協力を大幅に削減した。このように日中間協力にも問題が多く、この間、1994年5月には永野法相が「南京(ナンキン)大虐殺」否定発言で、同年8月には桜井環境庁長官が「侵略戦争」否定発言で相次いで辞任したり、1996年夏には尖閣諸島問題が再燃するなど、日中関係に固有な問題も相変わらず生じている。しかし、1997年9月には橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)首相が、同11月には李鵬(りほう/リーポン)首相が日中国交25周年を記念して相互訪問し、日米防衛協力のための指針(「新ガイドライン」)や極東有事の問題での意見の隔たりにもかかわらず、「対話と協調」をベースにした日中関係の調整が図られた。翌1998年7月には、日本共産党の不破哲三(ふわてつぞう)委員長が訪中して日中両共産党は32年ぶりに和解し、同年11月には日中平和友好条約締結20周年を記念して江沢民主席が再訪日するなど日中関係に新たな展開があったが、歴史認識の問題や台湾問題など日中間にはまだ大きな溝も存在している。
 そのような状況で推移してきた日中関係のなかでとげのような問題は、靖国神社問題とくにいわゆるA級戦犯の靖国神社合祀(ごうし)についてである。靖国神社へは日本の歴代首相が参拝してきたにもかかわらず、1985年に中曽根康弘(なかそねやすひろ)首相が公式参拝に踏み切り、同年秋の訪中時に中国の学生らに激しく非難されて翌年から参拝をとりやめたことから、中国側は事あるごとに靖国問題で日本を批判するようになった。とくに小泉純一郎首相が選挙公約どおり靖国参拝に及ぶと中国側の批判はエスカレートしたが、こうした日中関係の構造を自覚した安倍晋三(あべしんぞう)首相は、首相就任直後に訪中して日中関係の「戦略的互恵関係」を提案した。
 中国は2008年には北京オリンピックも成功させ、2010年夏にGDP総生産で日本を追い抜き、世界第二の経済大国になったが、一人当りのGDPは約5000米ドルとまだ低く、国内的には貧富の差、言論統制、農民問題や、ウイグル族やチベット族、モンゴル族など少数民族への抑圧の問題など、深刻な社会問題もかかえている。そうしたなかで最近の中国は、軍事力、とくに海軍力を増強して東シナ海や南シナ海に進出するなど、軍事大国化への動きが目だっており、アメリカやアジアの周辺諸国のみならず、日本の防衛当局も警戒を強めている。民主党政権下で2010年(平成22)9月に発生した尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船に対する中国漁船の横暴な衝突事件もその反映であり、日中国交樹立40周年を2012年に控えて、日中関係のあり方が改めてさまざまに問われている。[中嶋嶺雄]
『石川忠雄・中嶋嶺雄・池井優編『戦後資料 日中関係』(1970・日本評論社) ▽中嶋嶺雄著『日本人と中国人ここが大違い』(2008・PHP研究所) ▽高市恵之助・富山栄吉著『日中問題入門』(岩波新書) ▽中嶋嶺雄著『中国――歴史・社会・国際関係』(中公新書) ▽中嶋嶺雄著『「日中友好」という幻想』(PHP新書) ▽中嶋嶺雄編著『歴史の嘘を見破る――日中近現代史の争点35』(文春新書)』

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