守山村(読み)もりやまむら

日本歴史地名大系 「守山村」の解説

守山村
もりやまむら

[現在地名]守山市守山町・下之郷町しものごうちよう

市域南東部の野洲やす川左岸扇状地に位置。守山と下之郷の集落からなり、守山は表町・裏町に分れていた。江戸時代には北東に吉身よしみ村、南西に今宿いまじゆく村の家並が連なり、五六九間に及ぶ街村を形成していた。地名は古く、「古今集」巻五秋歌下に「もる山のほとりにてよめる」という紀貫之の「しらつゆも時雨もいたくもる山はしたばのこらず色づきにけり」の一首があるほか、永承元年(一〇四六)には式部大輔資業が「近江国もる山」を詠んで「すべらきをときはかきはにもる山の山人ならし山かづらせり」の歌を残している(新古今集)。中世には関東と京都を結ぶ道筋の宿場として軍記物語や紀行文学に登場、またしばしば戦場ともなっている。建久元年(一一九〇)源頼朝が「もる山」で狩を行い、北条時政と連歌したという逸話が「古今著聞集」巻五にみえる。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一二日条には「杜山」とある。観応二年(一三五一)八月一日足利尊氏近江出兵に際し、兵糧料所として曾我師助に守山郷地頭職を預け置いたという(「足利尊氏御教書案」後鏡)。守山には近江猿楽四座の一をなす守山猿楽があった。文明一七年(一四八五)九条政家が京都五条坊門東洞院ぼうもんひがしのとういん(現京都市中京区)で見た勧進猿楽では、一一歳から一四、五歳の守山の猿楽衆が興行していた(「政家公記」同年七月二九日条)


守山村
もりやまむら

[現在地名]郡山市田村町守山たむらまちもりやま

山中さんちゆう村の南、谷田やた川中流域の丘陵に立地。須賀川から金屋かなや村を経て郡山に至る道と三春みはる(現三春町)へ至る道が通り、当地から磐城への道が分岐する交通の要衝。森山とも書く。中世に守山城が築かれ、戦国期には城下町・宿場町として町場が形成されていた。なお中世には当村のほか山中・岩作がんざく大供おおとも三ヵ村一帯を含めて守山といい、応永二四年(一四一七)五月一日の浄祐譲状(青山文書)によれば、守山の湯上坊浄祐が紀州熊野本宮・新宮の旦那職を田村庄糠田侍従阿闍梨に譲渡している。同三〇年、この湯上坊の祐和が熊野参詣の先達職の文書三通を質として、銭一〇貫文を借金している(九月二日「祐和銭借状」同文書)。天正二年(一五七四)四月二五日、田村清顕は守山から岩瀬領を攻めており(「伊達輝宗日記」伊達家文書)、同五年頃清顕は蘆名氏・二階堂氏などの連合軍と攻防戦のため、軍勢を御代田みよだ・守山へ移している(七月二八日「長沼盛秀書状」首藤石川文書)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には守山(高二千三二五石余)・守山町(高六五石余)が載り、ともに田丸氏の知行地


守山村
もりやまむら

[現在地名]吾妻町大木場名おおこばみよう田之平名たのひらみよう古城名ふるしろみよう平江名ひらえみよう

山田やまだ村の東に位置し、北西部は海に臨む。大木場名に古代の条里遺構がみられる。中世は山田庄のうちとしてみえる。田之平名の彦山ひこさん神社(英彦山神社)境内の傍らに鎌倉時代後半頃の大型の宝篋印塔(基礎と笠の残欠)があるが、雲仙信仰にかかわる四面しめん(現温泉神社)が最初に成立したとされる千々石ちぢわ町・西有家にしありえ町でも同時期の大型石塔がみられることから興味深い。古城名には中世に守山氏が居城したとされる守山城の跡があり、付近に宝篋印塔・五輪塔が多数発見されている。一五九〇年(天正一八年)一一月イエズス会のコエリヨ神父はモリヤマという大きい村で罵倒を受けるなど住民の抵抗で説教を妨げられたが、八七六人が受洗したという(フロイス「日本史」)

江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「守山」とみえ、高二千二三〇石余。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に守山村として高一千二〇九石余、守山内として古城村三四四石余・大木場村二六八石余・田平村二五五石余・平江村三四一石余が記される。


守山村
もりやまむら

[現在地名]守山区守山

南に矢田やだ川が流れている。現守山区の西南端にあたる。長母ちようぼ(現東区)の所在地が明治九年(一八七六)に矢田村(現東区)へ移るまでは守山村であったので、長母寺の名は鎌倉後期から、その所在地木賀崎きがさきは南北朝時代からの史料に散見され、貞治四年(一三六五)の長母寺長老宛足利義詮安堵状(名古屋市博物館蔵)に「秦江郷内塔田壱町」とみえる。しかし守山の初見は大永六年(一五二六)の「宗長手記」である。


守山村
もりやまむら

[現在地名]志賀町八屋戸はちやど

南は北船路きたふなじ村。森山とも記される。寛永石高帳に高四一八石余とあり、幕府領。慶安高辻帳では田方二七二石余・畑方一二七石余・永荒一七石余。北船路村との間で浜地の境界に関し、享保一七年(一七三二)・寛延四年(一七五一)出入があった(北船路共有文書)。天保一五年(一八四四)一反余の新田検地が行われた(守山共有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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