デジタル大辞泉
「安原貞室」の意味・読み・例文・類語
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やすはら‐ていしつ【安原貞室】
- 江戸初期の俳人。京都の人。安原氏。本名正章(まさあきら)。通称鎰(かぎ)屋彦左衛門。別号一嚢軒・腐誹子。紙商を業とした。貞門七俳人の一人。慶安四年(一六五一)点者を許され、花の本二世を継ぎ、狂歌にも親しんだ。著、「俳諧之註」「氷室守」「かたこと」「正章千句」「玉海集」など。慶長一五~寛文一三年(一六一〇‐七三)
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安原貞室
やすはらていしつ
[生]慶長15(1610).京都
[没]寛文13(1673).2.7. 京都
江戸時代前期の俳人。名,正章 (まさあきら) 。通称,鎰 (かぎ) 屋彦左衛門。別号,一嚢軒,腐誹子。京都の紙商で,松永貞徳に愛され,42歳で点業を許された。貞徳没後その正統後継者を自任して貞徳2世を名のり,『貞徳終焉記』 (1653) ,『玉海集』 (56) を編んだりしたが,野心家で不遜な人物でもあったので,同門のたれかれと対立論争した。寛永 19 (42) 年自注独吟百韻『誹諧之註』をめぐる松江重頼との論争,正保2 (45) 年重頼の『毛吹草』に対する貞室の『氷室守 (ひむろもり) 』による攻撃,貞室の『正章千句』 (48) に対する一雪の『茶杓竹』による攻撃と貞室側の『蠅打』による反撃などが有名。編著はほかに『五条百句』 (63) ,『玉海集追加』 (67) ,語学書『かたこと』 (50) など。
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安原貞室
没年:延宝1.2.7(1673.3.25)
生年:慶長15(1610)
江戸初期の俳人。貞徳門。京都の人で,鎰屋彦左衛門と称する紙商を営む町人。貞門の俳人としては傑出した人物のひとりであったが,野心的で自我意識が強く,松江重頼との間に激しい論争を繰り広げたばかりでなく,同門からも非難を浴びるような振る舞いがあり,かつては自分の門人であった北村季吟とも絶交した。しかしその作品は,松尾芭蕉などから高く評価され,貞室が加賀の山中の人々から点料を取らなかった奥ゆかしい逸話を,芭蕉は『おくのほそ道』に記している。<参考文献>小高敏郎「安原貞室」(『俳句講座』2巻),乾裕幸『周縁の歌学史』
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安原貞室 やすはら-ていしつ
1610-1673 江戸時代前期の俳人。
慶長15年生まれ。京都の紙商。松永貞徳にまなび,師から点業をゆるされる。寛永19年刊行した「俳諧(はいかい)之註」をめぐり同門の松江重頼に非難され,論争をくりひろげた。寛文13年2月7日死去。64歳。名は正章。通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門。別号に腐俳子,一嚢軒。著作はほかに「玉海集」「貞徳終焉記」など。
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世界大百科事典(旧版)内の安原貞室の言及
【貞室】より
…江戸前期の俳人。姓は安原,名は正章(まさあきら),通称は彦左衛門,別号は一囊軒(いちのうけん),腐誹子(ふはいし)。京都の人。紙商を営む。屋号は鎰屋(かぎや)。1625年(寛永2)15歳で貞徳の私塾に学び,18歳のころ俳諧を始めたらしい。野心的で自負心が強かったため,同門の諸家と争うことが多く,亡母追善の自注百韻《俳諧之註》(1632)を批判された腹癒せに,《氷室守(ひむろもり)》(1646)を出して重頼の《毛吹草(けふきぐさ)》(1645)を難じたり,《五条百句》(1663)を匿名で出版,同門の諸家を酷評し自己を賞揚したり,貞徳の没した翌54年(承応3)の歳旦吟で,貞徳直系の後継者を装って人びとの顰蹙(ひんしゆく)を買ったりした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」