安宅村
あたかむら
[現在地名]川崎町安真木
荒平村・黒木村の東に位置し、東部を安宅川が北流する。南端に戸谷ヶ岳(七〇二メートル)がそびえ、南西は山地で筑前国嘉麻郡熊ヶ畑村(現山田市)に接する。天文二一年(一五五二)六月二八日の大内義長袖判書下(児玉
採集文書)にみえる「田川郡阿多賀村」は当地をさすと考えられる。元和八年人畜改帳では高八九一石余、家数二〇八・人数四五七(うち惣庄屋一・百姓一一・名子六〇)、牛五二・馬一八。
安宅村
あたぎむら
北は安居村、南は塩野村、東は太間川村・周参見浦(現すさみ町)、西は矢田村と境を接し、日置川を隔てて大野村と相対する。集落は日置川支流の安宅川に沿う。この地域は古くから開けていたとみられ、安宅遺跡から弥生時代後期の土器などが発見されている。中世は安宅庄に含まれた。南北朝の初めから熊野水軍の安宅氏の本拠で、日置川と安宅川に挟まれた平地部には城の内・丸の内などの地名を残し、安宅氏の居館跡と推定される。またその北の小丘(標高七五メートル)に八幡山城、南の塩野との境の尾根に古武・勝山の山城を構築し、安宅川に沿う山麓には家臣団を配置し領知していた(「安宅一乱記」附図)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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