改訂新版 世界大百科事典 「安村検校」の意味・わかりやすい解説
安村検校 (やすむらけんぎょう)
生没年:?-1779(安永8)
地歌箏曲家。都名(いちな)は頼一(らいいち)。1732年(享保17)検校登官。68-71年職屋敷の惣検校。三弦は柳川流の田中検校に師事し,河原崎検校(1778年登官)に伝授した。箏は生田検校門下の倉橋検校(?-1724)に師事し,安村の門人に藤池,浦崎,久村,石塚,長谷富の各検校がいる。久村の系統から名古屋系,石塚の系統から大坂系(新生田系),長谷富は江戸へ下ってその系統から山田流が生まれた。箏組歌を整理し《撫箏雅譜集》(1755)を刊行。同書末尾に自作の《飛燕曲》を載せ,以後組歌の新作を禁じたといわれるが,以後も新作はあり,確証はない。段物の《七段の調》の作曲者とする説もある。安村の子の安村頼起は晴眼者であるが父の跡を継ぎ,《撫箏雅譜集》以後の新曲を収めた《新曲九組》(1771),《琴曲洋峨集》(1787)を刊行し,みずから安村流を称したが,専門家は出ず,一代で絶えている。
執筆者:久保田 敏子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報