日本大百科全書(ニッポニカ) 「箏曲」の意味・わかりやすい解説
箏曲
そうきょく
チター族の箏(そう)(こと)を主要楽器とする日本音楽の種目名。箏は奈良時代に中国から伝来し、雅楽の管絃(かんげん)曲でも演奏するようになった。これを楽箏(がくそう)とよんでいる。その後、室町時代には雅楽と中国の七絃琴の音楽の影響下に、久留米(くるめ)の善導寺において、賢順(けんじゅん)(?―1636)が筑紫(つくし)流箏曲を確立した。やがてこれらは近世箏曲へとつながっていった。なお、これらの近世箏曲に使われる箏は、一般に楽箏に対し俗箏とよばれる。
[井野辺潔]
箏曲の歴史
近世
筑紫流箏曲を学んだともいう八橋検校(やつはしけんぎょう)からその歴史が始まる。彼は都節(みやこぶし)音階の平(ひら)調子の調弦法を案出し、近世音楽としての第一歩を踏み出した。そして箏組歌(ことくみうた)や段物(だんもの)を作曲した。やがて八橋の流れをくむ盲人音楽家の間で17世紀後半には八橋流、継山(つぐやま)流、生田(いくた)流が、18世紀に藤池(ふじいけ)流などが成立した。とくに広義の生田流は大坂、京都をはじめ江戸、九州、名古屋にも広まり、最大の流派に発展する。流祖生田検校は雲井調子(くもいじょうし)、中空調子(なかぞらじょうし)をつくり、角爪(かくづめ)を使用、三絃との合奏に意を用いたという。それ以来、地歌曲に箏の手付けをして合奏することが盛んとなり、さらに市浦(いちうら)検校以後、別旋律で箏を演奏する替手(かえで)式箏曲が主流を占めるようになっていった。なかでも八重崎(やえざき)検校の京流手事物(てごともの)の箏手付けに名曲が多く、現在までこうした地歌種箏曲が人気曲となっている。
一方、江戸では一時期生田流が進出していたが、山田検校が現れて、河東節(かとうぶし)などの影響下に、箏を主とし、三絃を従とする語物的性格の強い山田流箏曲が誕生した。かくして、江戸では山田流が圧倒的勢力を振るうこととなり、京坂の生田流系統に対抗し、独自の世界をつくりだした。やがて幕末期になると、手事物にも行き詰まりが生じ、また、この期の復古主義思想の影響を受けた箏曲がつくられるようになった。三絃よりも箏に重点を置くという総体的傾向のもとに、京都の光崎(みつざき)検校は段物や天保組(てんぽうぐみ)とよばれる箏組歌を復活させ、名古屋の吉沢(よしざわ)検校も古今(こきん)調子による箏組歌、『古今和歌集』に取材した古今組シリーズを作曲した。もっとも、その一方では明治期にかけて、幾山検校や松阪春栄(はるえ)らによる伝統的手法による京流手事物の作曲も行われていた。
[井野辺潔]
明治以後
大多数の伝統音楽が幕末から明治にかけて完成をみたのに対し、箏の演奏技法の開拓と様式の展開は明治以後も継続され、幕末以来の新しい試みや西洋音楽からの影響のもとに、大阪を中心とする明治新曲が出現した。菊高検校、菊塚検校、楯山登(たてやまのぼる)らの活躍によるものである。その一方では、20世紀初頭、京都で鈴木鼓村(こそん)が京極流を樹立している。さらに宮城道雄らの新日本音楽に至って、西洋音楽からの影響はいっそう強くなり、演奏の場を家庭内や座敷からホールなど大会場へと進出させたが、同時に日本的感性の豊かさを維持した。そして新邦楽から第二次世界大戦後の現代邦楽へとつながってゆき、新しい時代と音楽の流れに適応する動きをみせている。
なお、明治以後は、従来の十三絃箏以外に低音域の充実を図って、宮城道雄が十七絃や八十絃、宮下秀洌(みやしたしゅうれつ)が三十絃、野坂恵子が二十絃の箏を開発、使われなくなった八十絃を除いて、それぞれが独自の世界をつくりだしている。また近代的な演奏を目ざして、反響板を取り付けた箏響台の上に箏をのせ、腰掛け奏をするようにもなった。
[井野辺潔]
近世箏曲の流派
大別すると生田流、山田流の二大系統になる。生田流の系統は大阪、京都を中心に、中国、九州、名古屋などに根を下し、さらに大阪や九州から東京へも進出している。角爪を使用し、地歌種の箏曲においては三絃を主とし箏を従として合奏を行うのがこの系統の特色となっている。もっとも、一口に生田流といっても、狭義の生田流のほか、新生田流、継山流、新八橋流などがあるし、さらにそこから派生した宮城会、正派(せいは)、京極流もある。また現在は廃絶したが、隅(住)山(すみやま)流、藤池流、安村流などが過去に存在したようである。これとは別に、大阪では菊筋、富筋、中筋、楯(たて)筋、玉(たま)筋などの、京都では上派、下派、伏見(ふしみ)派などの区別があった。
一方、山田流は東京で一大勢力を形成している。丸爪で弾き、地歌種の箏曲では三絃より箏が主体となって合奏する。浄瑠璃(じょうるり)風の曲や、細棹(ほそざお)の三絃を用いる点にも特色がある。山登(やまと)、山木(やまき)、山勢(やませ)、中能島(なかのしま)などの数系統があり、十指にのぼる家元がいる。なお、生田・山田両流のほかに、長野県松代(まつしろ)の八橋流、青森県の津軽郁田(いくた)流、沖縄箏曲があり、それぞれ特色と伝統をもって行われている。
なお箏曲の重要無形文化財保持者には、山田流の初世越野栄松(こしのえいしょう)(1887―1965)を最初に、生田流では米川文子(よねかわふみこ)(1894―1995)、宮城喜代子(みやぎきよこ)(1905―91)、米川敏子(1913―2005)、山田流では中能島欣一(きんいち)(1904―84)、2世上原真佐喜(うえはらまさき)(1903―96)らが指定された。
[井野辺潔]
近世箏曲の曲種
(1)箏組歌 八橋検校の十三組に始まる。128拍を一つの歌として、六歌など複数歌の組合せよりなる。演奏はカケヅメ(かけ爪)の多用を特色とする。伝習上、表・裏・中・奥の別がある。
(2)段物(調物(しらべもの)) やはり八橋検校に始まる器楽曲で、原則的には歌を伴わない。一段は104拍を基準とし、数段で構成される。
(3)地歌種箏曲 地歌曲に箏を加えて演奏する曲。歌物の曲に箏を入れる場合もあるが、そのときの箏は従属的でしかない。しかし手事物では、替手式として三絃と対等に活躍する。また、胡弓(こきゅう)や尺八を加えて三曲合奏することも多い。
(4)山田流の浄瑠璃風箏曲 河東節、一中(いっちゅう)節、富本節と交流が盛んだった山田流では、流祖山田検校の作品をはじめとして、浄瑠璃様式の箏曲が数多くつくられている。歌や箏・三絃の旋律、楽器編成、掛け声、演奏法など独自の特色をもっている。
(5)幕末期の復古的革新曲 光崎検校の天保組や『五段砧(ぎぬた)』、吉沢検校の古今組などで、組歌や段物を復活したり、都節に雅楽風の律を加味した古今調子の音階を編み出すといった復古運動を通して、箏曲の革新を図ったもの。
以上は曲の様式、形式による分類であるが、ほかに曲の主題、内容、旋律などの面から、獅子(しし)物、砧(きぬた)物、御祝儀物、小町物などといった曲種の分類も行われている。しかし、箏曲全部をこれで分けるのは困難である。
[井野辺潔]
『千葉優子著『箏曲の歴史入門』(1999・音楽之友社)』