安積親王(読み)あさかしんのう

改訂新版 世界大百科事典 「安積親王」の意味・わかりやすい解説

安積親王 (あさかしんのう)
生没年:728?-744(神亀5?-天平16)

聖武天皇皇子。母は県犬養広刀自。同腹の姉妹に井上内親王不破内親王がある。聖武天皇の正妻光明子は藤原不比等の女で718年(養老2)阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を,727年閏9月29日に基親王を生んだ。基親王は同年11月2日に皇太子に立てられたが翌年9月13日に没した。安積親王は没年より推して,その前後に誕生したと推定される。安積は聖武天皇の唯一の男子となったが,太子に立てられず,738年(天平10)に阿倍内親王が太子に立てられた。男子がありながら女性の太子を立てたところに,安積の地位に不安が残った。744年閏1月11日,天皇は恭仁(くに)京から難波京行幸し,安積も従ったが,途中桜井頓宮より脚病のため恭仁京の自宅へ帰り,13日に没した。暗殺された疑いがある。安積は藤原八束(真楯),大伴家持らと親しく,《万葉集》にはともに宴した歌や家持の挽歌がある。
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朝日日本歴史人物事典 「安積親王」の解説

安積親王

没年:天平16.閏1.13(744.3.1)
生年:神亀5(728)
奈良時代の親王。聖武天皇と夫人県犬養広刀自の皇子。天平16(744)年閏1月,聖武天皇の難波行幸に従ったが,脚気のために桜井頓宮(東大阪市六万寺町付近)から恭仁京に引き返し2日後に死去。『万葉集』に大伴家持の挽歌を収める。天平1(729)年藤原氏が長屋王の変を起こして不比等の娘である光明子を皇后に立てることを強行したのは,神亀5(728)年に,その前年光明子から生まれたばかりの皇太子が亡くなる一方,安積親王が生まれたためといわれる。天平10年阿倍内親王(孝謙天皇)が立太子していたが,安積親王はたったひとりの皇子であり,最も有力な皇位継承者だったので,藤原仲麻呂により暗殺されたとする説がある。<参考文献>岸俊男『藤原仲麻呂』,横田健一「安積親王の死とその前後」(『南都仏教』6号)

(今泉隆雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安積親王」の解説

安積親王 あさかしんのう

728-744 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇子。
神亀(じんき)5年生まれ。母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいの-ひろとじ)。天平(てんぴょう)16年閏(うるう)1月11日聖武天皇の難波(なにわ)行幸にしたがったが,脚の病気のため恭仁京(くにきょう)にひきかえし,13日に没した。17歳。光明皇后の生んだ姉阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が皇太子にたてられていたが,親王が唯一の男子であったので,藤原仲麻呂らによる暗殺の疑いももたれている。

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世界大百科事典(旧版)内の安積親王の言及

【長屋王の変】より

…この王は次の天皇たるべく翌々月に立太子したが,翌728年9月夭折した。ところがそのころ,聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積(あさか)親王を出産し,藤原氏に衝撃を与えた。聖武唯一の皇子である安積親王はやがて立太子し即位する公算が大きく,そうなると藤原氏は将来権力の座を追われかねない。…

【和束[町]】より

…木津川の支流和束川の流域に位置し,町域の大部分が山地で,北に鷲峰山(じゆぶせん)(685m)がそびえる。古く聖武天皇の恭仁(くに)京造営時より,一帯の山は杣(そま)として利用されたものと考えられ,天皇の子安積(あさか)親王の死(744)を悼んだ大伴家持の歌に〈和豆香(わづか)そま山〉の名がみえる(《万葉集》巻三)。和束杣は,のちには興福寺領となっており,源平争乱の際には平氏が兵士や兵粮米を賦課し,杣工らはその停止を訴えている。…

※「安積親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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