改訂新版 世界大百科事典 「難波京」の意味・わかりやすい解説
難波京 (なにわきょう)
7世紀中葉から8世紀末まで,現在の大阪府の上町台地を中心とする古代難波にあった日本の都。1954年以来の発掘調査によって,上町台地北端部の大阪市中央区法円坂の地を中心に前期・後期2時期の宮殿址が発見された。前期難波宮は孝徳朝の難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮,後期難波宮は聖武朝に再建された奈良時代の難波宮の遺構であると考えられる。前期・後期難波宮ともに主として内裏・朝堂院など中心部の状況が明らかにされており,その宮域は未確認であるが約1km四方と推定されている。726年(神亀3)10月造営に着手され734年(天平6)ころ完成した後期難波宮に条坊制に基づく難波京が設けられていたことは,734年9月の宅地班給記事などから推測される。また前期難波宮についても,683年(天武12)の複都制の詔の中で百寮に家地を請わせており,遅くともこのころには京域が整備されていたことが推測される。しかし孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考えられる前期難波宮に,条坊制を伴う京が当初から存在していたかどうかについては多くの問題が残されている。《日本書紀》の記述が史実としてそのまま信用されていた戦前においては,喜田貞吉の《帝都》にみられるごとく,大化改新詔の京師条に基づいて,中国の唐長安城を模した条坊制都城が長柄豊碕宮において初めて成立したとするのが通説であった。現在では京師条は他の詔文同様,後世の大宝令による潤色が濃いとして,孝徳朝における難波京の存在には否定的で,中国の都城制を範とする条坊制都城の成立は天武朝以後,なかんずく藤原京に始まるとする見解が有力で,条坊制都城の成立時期は古代史学の争点の一つとなっている。
難波京の復元上注目すべきは,発掘によって確認された難波宮中軸線の南延長線上に,朱雀大路に相当する古道の痕跡が認められることで,四天王寺東辺には,一辺約265mの藤原京条坊と同じ方形地割りの痕跡も残されている。これを手がかりに藤原京と同じ750大尺(900小尺)の条坊方眼を地図上にかぶせてみると,これと一致する街路や橋が認められる。いま難波京を藤原京と同じ東・西各4坊とすると,東京極は猫間川の線,西京極は天神橋筋から有馬温泉に至る推定古道線に一致し,東堀川のやや内側に当たる。それは同時に東西約2kmの上町台地の東縁と西縁に一致することになる。南北は難波宮の北に藤原京と同様の園地を考えるかどうか,四天王寺や摂津国分寺を京内に含めるかどうか,茶臼山古墳や御勝山古墳を京外に位置させるかどうかで諸説に12~16条の違いが生じる。(1)南北16条(約4km),左京4坊・右京8坊の東西12坊(約3km)の京域を想定し,難波京は孝徳朝に造営を始め天武朝に完成,さらに聖武朝に修理したとする説,(2)長柄豊碕宮の京域を藤原京と同じ東・西各4坊,南北12条とし,聖武朝難波京では平城京と同じ1坊1800小尺の東・西各4坊,南北9条に拡張されたとする説,また,(3)前期難波京を東・西各4坊,南北14条とする説,(4)後期難波京をこれと同規模とする説がある。難波京条坊の復元は,過密化した都市域という劣悪な調査環境にあることから,宮域の範囲が未確認であること,古い地割りや小字名の遺存度が低いこと,条坊遺構の検出が容易でないことなど困難な点が多く,いずれの復元案も推定の域を越えていないのが現状である。
→難波宮
執筆者:中尾 芳治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報