デジタル大辞泉 「挽歌」の意味・読み・例文・類語
ばん‐か【×挽歌/×輓歌】
2 万葉集で、
[補説]書名別項。→挽歌
輓歌とも書く。野辺の送りのとき柩(ひつぎ)の車を挽(ひ)きつつうたう歌。中国では早くから詩体の一つとされ,《文選》(6世紀)が魏・晋の作品5首(五言詩)を収める。起源については諸説があるが,現存最古の作品は,ふつう漢初斉の田横が漢の高祖に仕えるのを恥じて自殺したとき(前202),門人たちが悲しんで作った葬送歌だという。もと1首だったのを,漢の武帝のとき音楽庁長官李延年が薤露(かいろ)と蒿里(こうり)の2曲に分け,前者を王侯貴人の,後者を士大夫庶民の挽歌としたといわれる(晋の崔豹《古今注》)。〈薤(おおにら)の上の露,何ぞ晞(かわ)き易(やす)き,露は晞くも明朝更に復(ま)た落つ,人死して一たび去らば何れの時か帰らん〉(〈薤露〉)とうたうように,2曲はいずれも人の命のはかなさを恨む。この伝統を受けついだ六朝以後の挽歌は,主として皇族・高官あるいは知人の死をいたんで作られ,またときには宴会の座興にうたわれたという記録もある。一方,《文選》の5首(魏の繆襲(びゆうしゆう)1,晋の陸機3,晋の陶潜(淵明)1)は,特定の個人のための挽歌でなく,一般に死者になりかわっての作である。また陸機の作品は3首で納棺,葬送,埋葬と3場面をうたい分け,繆,陶その他若干の詩人にも3首連作と思わせる作品がのこっている。うち陶淵明の3首は,おのれの死を想定した自挽の作として特異である。なお詩体としての〈挽歌〉は,日本の《万葉集》の分類に影響を与えた。
執筆者:一海 知義 日本文学においては,挽歌は和歌の分類名で,《万葉集》では〈哀傷〉の語の代りに広く人の死を悼み悲しむ歌を表す語として用い,雑歌(ぞうか),相聞(そうもん)と並ぶ三大部立の一つとして採用している。挽歌すなわち哀傷歌の源流は葬儀における呪的・儀礼的歌舞に求められるが,そうした伝統の上に,さらに《文選》などの哀傷詩の高度な達成が作用して,真の抒情詩としての挽歌が誕生したといえる。初期万葉を代表する挽歌としては,天智天皇死去のときの皇妃たちの詠がある。また宮廷歌人柿本人麻呂は公的・儀礼的性格の強い殯宮(もがりのみや)/(ひんきゆう)挽歌を成し,一方,大伴旅人は老境に至って失った妻への思いを珠玉の連作に託した。さらに,みずからの運命を見つめた自傷歌や,伝説上の人物の死を詠じたものもある。平安朝以降,挽歌の語は用いられず,部立名としては〈哀傷〉がこれに代わった。
執筆者:身﨑 壽
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死者を悼(いた)む歌。
[石川忠久]
「挽」は、「引く」意で、もともとは葬儀のとき、柩(ひつぎ)を載せた車を引きながらうたう歌である。漢代の楽府(がふ)、相和歌相和曲のなかに、「薤露」(かいろ)「蒿里」(こうり)の二曲がある。薤露は、人の命が薤(おおにら)の上に宿る露よりはかないことをうたい、蒿里は、死神が追いやって人の魂を蒿(よもぎ)の里に聚(あつ)めることをうたう。言い伝えによると、漢の高祖のとき、田横(でんおう)が自殺したのを門人が悼んでつくったもので、のち武帝のとき、薤露を王公貴人、蒿里を庶人の葬儀用にと分けて定めたという。魏(ぎ)の曹操(そうそう)・曹(そう)植などに同題の模擬作がある。「挽歌」と題する歌は魏の繆襲(びゅうしゅう)の作がもっとも早い。歴代の模擬作のうち、西晋(せいしん)の陸機(りくき)の三部作と、それに倣った東晋の陶潜(とうせん)の三部作が名高い。陸機作では、死者が自らの心境を述べ、陶潜作では、自らの死を想定して述べているところがユニークである。これらはいずれも葬りの歌というより、死をテーマとする文学となっている。
[石川忠久]
「雑歌」(ぞうか)「相聞」(そうもん)と並ぶ、『万葉集』における三大部立(ぶだて)の一つ。その名称は『文選』(もんぜん)に典拠を求めたとみられる。原義は、柩(ひつぎ)を挽(ひ)くときにうたう歌の意であるが、『万葉集』では広く死を悼む歌(辞世歌や伝説的人物の墓所での歌などをも含む)を収める部立となっている。『万葉集』は、巻2、3、7、9、13、14の諸巻に「挽歌」の部立をもち、218首を収載する。有間(ありま)皇子の「自傷」の歌、「岩代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む」(巻2、141)が、巻2「挽歌」の部の冒頭に配される。ほかに、題詞・左注に「挽歌」と記すものが20首ある。
わが国の古代の喪葬儀礼において「歌舞」することは『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)などに伝えられる。しかし、その「歌舞」は呪術(じゅじゅつ)的なものであって、その伝統がそのまま「挽歌」につながるものではない。「挽歌」は、喪葬儀礼の外で死者を哀傷する歌として、中国の文学の媒介によって形づくられていった新しい歌の領域であった。喪葬儀礼の「歌舞」とは異質な、初めから叙情を性格とするものであったと認められる。『古今集』以後、「挽歌」の部立は消え「哀傷歌」と称されるようになる。
[神野志隆光]
『青木生子著『万葉挽歌論』(1984・塙書房)』
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雑歌(ぞうか)・相聞(そうもん)とともに「万葉集」の3大部立の一つ。巻2・3・7・9・13・14の各巻に挽歌の標題で219首の歌が配されるほか,部立を設けない巻5・15・16・17・19・20の各巻にも収録。広く人の死にかかわる歌で,葬送の歌をはじめ,死者追悼の詠,病中の作や辞世の歌,さらには行路死人や伝説上の人物の死を悼む歌なども含まれる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ヤギエウォ大学に学び,数次のイタリア遊学を経験,パリに赴いてロンサールらと相知り,豊かな人文学的教養を積んで帰国。国王ジグムント・アウグストに仕えた後,自領チャルノラスにあって代表作《ギリシア使節の辞去》(1578),《ダビデの詩編》(1579),《挽歌》(1580)を完成,わけても《挽歌》は愛娘ウルシュラの死によって引き裂かれた老詩人の心の慟哭(どうこく)がよく詩的結晶にまで高められ,中世ポーランド文学を画する抒情詩の名編となった。コハノフスキの文学を特徴づけているのは,理神論的世界観ならびに諦念を基調としたヒューマニズムであって,それらいっさいが達意の簡潔な文体によって定着せしめられている。…
…今日一般に〈悲歌〉〈挽歌〉など,哀愁を歌う詩を指す語として理解され用いられている言葉。この名称で伝わる詩文のジャンルの歴史は古く,その始源は前7世紀ギリシアの詩人たちにさかのぼる。…
※「挽歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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