奈良前期の聖武天皇の皇后。諱(いみな)は安宿(あすかべ),出家して光明子という。藤原不比等の第三女,母は橘三千代。幼にして聡慧,早くから声誉高かったが,716年(霊亀2)16歳で皇太子首(おびと)皇子の妃となり,翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む。首皇子の即位により夫人となり,727年(神亀4)皇子(《本朝皇胤紹運録》は基王)を生み,直ちに皇太子に立てたが翌年夭死した。同じ年聖武天皇のもう1人の夫人県犬養広刀自に安積(あさか)親王が誕生したため,藤原氏は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ,それを防ぐ手段として,それまでは皇后が夫帝の死後女帝として即位するのが慣例であったことに着目し,安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変),三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元,729年(天平1)にはついに皇族以外から出て皇后となった。湯沐2000戸のほかに1000戸の封戸が給せられ,皇后宮職を設置,それに施薬院,悲田院を付置して飢病の徒を療養した。また仏教を厚く信仰し,興福寺に五重塔,ついで亡母三千代のために西金堂を造営,さらに皇后宮(藤原不比等の邸宅)の東北隅に隅寺(すみでら)(海竜王寺)を創立,両親の菩提を弔うため玄昉が将来した《開元釈教録》による一切経の書写を始めた。これはのち〈五月一日経〉(光明皇后願経)として完成する。738年(天平10)娘の阿倍皇女が皇太子となり,つづいて聖武天皇は国分寺の創建,盧舎那大仏像造顕の詔を発布するが,これらの事業はいずれも皇后の勧めによるといい,皇后宮は国分尼寺(法華寺)とされた。749年(天平勝宝1)7月聖武天皇が譲位すると,皇太后となって紫微中台(しびちゆうだい)を設置し,甥の藤原仲麻呂を長官に登用し,娘の孝謙天皇に代わって実質的に皇権を行使した。ついで756年に聖武太上天皇が没すると,その遺愛の品々を東大寺に献納したが(正倉院宝物),なかには自筆の《楽毅論》や《杜家立成》も含まれていた。さらに藤原仲麻呂が大炊(おおい)王を立太子させ,橘奈良麻呂ら反対派との対立が激化すると,両派の衝突回避に努力したが,それも空しく橘奈良麻呂の変が起こった。変後大炊王が淳仁天皇として即位すると,天平応真仁正皇太后の尊号を受けたが,仲麻呂の専権がピークとなる760年6月に没した。年60,大和国添上郡佐保山(〈諸陵式〉佐保山東陵)に葬られた。《万葉集》に歌数首がある。
執筆者:岸 俊男
光明皇后は,女性でしかも皇后の身でありながら,仏の教えを実践した人として伝えられ,中世に入って仏教が庶民の間に浸透して行く中で,賛仰の対象となった。光り輝くほどに美しい女性であったという伝説は,光明子という名にも由来するが,法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられた(《七大寺巡礼記》)ためでもある。また皇后は浴室を建てて貴賤を問わず入浴させ,1000人のあかを落とそうと決意したが,1000人目に癩におかされた男があらわれたので,さすがにちゅうちょしたものの,勇を鼓してその体を洗い,さらに男の求めに応じて膿を吸ったところ,男は大光明を放って自分は阿閦(あしゆく)仏であると告げたという話(《宝物集》《元亨釈書》)は広く知られている。そのほか,諸芸にすぐれ,仏法の興隆に尽くしたとする伝説は多いが,仏教の盛時とされる天平時代の皇后を賛仰の対象としたところに,日本人の仏教信仰の一面があらわれている。
執筆者:大隅 和雄
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(義江明子)
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聖武(しょうむ)天皇の皇后。藤原光明子(こうみょうし)。名は安宿媛(あすかべひめ)。のち中台天平応真仁正皇太后(ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいこう)。父は藤原不比等(ふひと)、母は橘三千代(たちばなのみちよ)。716年(霊亀2)皇太子首(おびと)親王妃となり、724年(神亀1)首親王が即位して聖武天皇となるとともに夫人となり、729年(天平1)長屋王の変の後まもなく臣下の女としては異例の皇后となったが、当時皇后は天皇と並んで国政に参画する伝統があり、以後藤原氏の政界活動のよりどころとなった。立后と同時に皇后宮職(こうごうぐうしき)が置かれたが、749年(天平勝宝1)には昇格して紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、長官に藤原仲麻呂(なかまろ)が就任するに及んで、ここは実質的に政治を主導するところとなった。皇后は天皇とともに仏教を深く信仰し、国分寺の建立、東大寺大仏の造営などを積極的に勧めたといわれ、病人や孤児の救済のため施薬院(せやくいん)や悲田院(ひでんいん)など福祉施設をつくったことでも知られる。孝謙(こうけん)天皇の母。陵は佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)と称し、奈良市法蓮(ほうれん)町にある。
[押部佳周]
『林陸朗著『光明皇后』(1961・吉川弘文館)』
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701~760.6.7
聖武天皇の皇后。名は安宿媛(あすかべひめ)・光明子。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養(あがたいぬかい)三千代。716年(霊亀2)聖武の皇太子時代に入内し,即位後夫人をへて,729年(天平元)長屋王の変後に皇族以外からはじめて立后。女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると,皇后宮職を改組して紫微中台(しびちゅうだい)に権力を集中,事実上天皇大権を掌握した。仏教をあつく信仰して大規模な写経事業を行い,国分寺建立・大仏造立もすすめ,また施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会救済事業にも尽くした。正倉院宝物は,聖武の一周忌に遺品を東大寺に献納したもの。光明の書「楽毅(がっき)論」「杜家立成(とかりっせい)」は力強い筆致で,男性的な性格がうかがえる。
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…熊野と天王寺は観音めぐりの拠点で,この乙姫の姿には,あるき巫女の姿が重なり,さらに観音のイメージが強く投影している。乙姫は後に清水観音の夢告によって鳥掃という呪具を得,それで信徳丸の体をなでて病を治すが,乙姫のような女性像の前身には《元亨釈書(げんこうしやくしよ)》にのる光明皇后の垢摺(あかすり)供養伝説が考えられる。湯施行(ゆせぎよう)を始めた皇后の前に1人の癩人が現れ,体のうみを吸いとってくれと願う。…
…長距離の旅を強いられた律令制下の農民は途中で死亡する者も多く,政府の対策も不十分であっただけに注目され,のちに東大寺が大和に布施屋を設置し,平安時代には一部の地方官吏らにより続命院・救急院・悲田処ほか類似の施設が各地に設置された。 つぎに仏教に関心の深かった光明皇后の活動も著名である。施薬院や悲田院の設置は藤原氏の氏寺であった興福寺に置かれた先例があるが,光明子が皇后宮職にそれらを設置した意義は注目され,のちに孝謙女帝も興福寺の施薬院を財政面で援助し,弘仁年間(810‐824)には淳和天皇の皇后正子内親王が病気の僧尼のための済治院や癩病患者専門の不譲化身院を嵯峨の大覚寺に設けた。…
…令,弼,忠,疏の四等官22名がおかれた。もと光明皇后の意志の伝達,日常生活等を営むために729年(天平1)設置された皇后宮職を改称したものである。孝謙天皇の即位にともなって光明皇后が皇后から皇太后へかわったことに際してとられた措置であるが,紫微中台の長官(紫微令,後に紫微内相)に藤原仲麻呂が任命され,光明皇后との密接なつながりを官職上ももったことが注目される。…
…奈良の東大寺大仏殿の裏手に当たって見える白壁に囲まれた一郭の通称。ここの正倉には8世紀,奈良時代の文化を具体的に伝える多くの遺品が収蔵されている。大陸から舶載されたものも多く,それらは唐代の文化の粋を示すとともに,唐代の文化が受け入れた西方諸地域の文化の姿をも伝えており,古代の東西文化の交流について多くの資料を提供している。
[宝物の献納と管理]
756年(天平勝宝8)6月21日,聖武太上天皇没後49日の忌日に当たり,光明皇太后は書跡,服飾品,楽器,調度品,刀剣その他天皇遺愛の品を中心に六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に献納し,その冥福を祈った。…
…聖武天皇の即位に備えて,平城宮では以前から大改作工事が実行されていた。その後宮としては,藤原不比等の女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后),県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ),藤原武智麻呂の女(名前不明),同じく房前の女など4夫人の存在が知られ,このうち安宿媛との間に某王(基(もとい)王)と阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の2子,県犬養広刀自との間に井上(いかみ)内親王,不破内親王と安積(あさか)親王の3子をもうけた。727年閏9月安宿媛が出産した某王(基王)は,藤原氏の期待をになってただちに立太子されたが,翌年9月死亡した。…
…後に藤原不比等(ふひと)に接近し,彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となり,ついに美努王のもとを去り不比等と再婚した。701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと,三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み,再び乳母となって首皇子を養育した。このため,持統・元明女帝の信任はすこぶる厚く,これが不比等を側面からたすける力ともなった。…
…ここに藤原氏は目的を達したのである。以後,藤原氏は光明皇后とその4兄弟を中心に政界を領導していった。【栄原 永遠男】。…
…やがて事件が落着すると,瑞亀の献上によって天平と改元,ついで安宿媛は仁徳皇后磐姫の先例にならうという宣命とともに,臣籍ではあるが聖武天皇の皇后となった。世にいう光明皇后である。 かくて長屋王の変以後は,大納言から間もなく右大臣に進んだ藤原武智麻呂(南家)を中心に,参議に列した中務卿藤原房前(ふささき)(北家),式部卿藤原宇合(うまかい)(式家),兵部卿藤原麻呂(京家)ら不比等の子息四卿が政権を掌握した。…
…奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設。723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見で,その後諸大寺にも設けられ,730年(天平2)光明皇后によって皇后職に悲田,施薬の両院制が公設され,奈良・平安時代を通じ救療施設の中心となった。仏教の博愛慈恵の思想にもとづいてはいるが,唐の開元の制度に倣った施設で,悲田院の名称も唐制の踏襲である。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
…正しくは法華滅罪之寺といい,氷室御所ともいう。藤原不比等の旧宅があった平城左京一条三坊の地に,光明皇后の皇后宮が設けられ,745年(天平17)宮寺(みやでら)に改められたのが法華寺の始めと考えられ,大和国国分尼寺(国分寺)として漸次整備された。天平19年(747)1月の《正倉院文書》に法華寺の寺名が初見する。…
…のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされた。光明皇后が癩者の膿を吸ったという伝説があり,鎌倉時代の僧忍性(にんしよう)は奈良の北山十八間戸(けんと)と鎌倉の極楽寺に癩宿をつくり,救癩活動を始めている。 江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ,社会から締め出された癩者は,四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していた。…
※「光明皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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