光明皇后(読み)コウミョウコウゴウ

デジタル大辞泉 「光明皇后」の意味・読み・例文・類語

こうみょう‐こうごう〔クワウミヤウクワウゴウ〕【光明皇后】

[701~760]聖武天皇皇后。名は安宿媛あすかべひめ、また光明子とも。父は藤原不比等ふじわらのふひと、母は橘三千代たちばなのみちよ孝謙天皇の母。臣下の娘で皇后になった最初の例。仏教を尊び、悲田院施薬院を設置して福祉事業を行った。自筆と伝えられる「楽毅論」が正倉院伝存

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精選版 日本国語大辞典 「光明皇后」の意味・読み・例文・類語

こうみょう‐こうごうクヮウミャウクヮウゴウ【光明皇后】

  1. 聖武天皇の皇后。孝謙天皇の母。藤原不比等(ふひと)の娘。名は安宿媛(あすかべひめ)・光明子。はじめて皇族以外から皇后となる。施薬院を置いて毎年諸国の薬草を上納させ、悲田院を設置して救済事業を行なうなど仏教の振興に功があった。自筆と伝えられる「楽毅(がくきろん)」の書帖一巻が正倉院に収められている。大宝元~天平宝字四年(七〇一‐七六〇

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改訂新版 世界大百科事典 「光明皇后」の意味・わかりやすい解説

光明皇后 (こうみょうこうごう)
生没年:701-760(大宝1-天平宝字4)

奈良前期の聖武天皇の皇后。諱(いみな)は安宿(あすかべ),出家して光明子という。藤原不比等の第三女,母は橘三千代。幼にして聡慧,早くから声誉高かったが,716年(霊亀2)16歳で皇太子首(おびと)皇子の妃となり,翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む。首皇子の即位により夫人となり,727年(神亀4)皇子(《本朝皇胤紹運録》は基王)を生み,直ちに皇太子に立てたが翌年夭死した。同じ年聖武天皇のもう1人の夫人県犬養広刀自に安積(あさか)親王が誕生したため,藤原氏は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ,それを防ぐ手段として,それまでは皇后が夫帝の死後女帝として即位するのが慣例であったことに着目し,安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変),三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元,729年(天平1)にはついに皇族以外から出て皇后となった。湯沐2000戸のほかに1000戸の封戸が給せられ,皇后宮職を設置,それに施薬院,悲田院を付置して飢病の徒を療養した。また仏教を厚く信仰し,興福寺に五重塔,ついで亡母三千代のために西金堂を造営,さらに皇后宮(藤原不比等の邸宅)の東北隅に隅寺(すみでら)(海竜王寺)を創立,両親の菩提を弔うため玄昉が将来した《開元釈教録》による一切経の書写を始めた。これはのち〈五月一日経〉(光明皇后願経)として完成する。738年(天平10)娘の阿倍皇女が皇太子となり,つづいて聖武天皇は国分寺創建,盧舎那大仏像造顕の詔を発布するが,これらの事業はいずれも皇后の勧めによるといい,皇后宮は国分尼寺法華寺)とされた。749年(天平勝宝1)7月聖武天皇が譲位すると,皇太后となって紫微中台(しびちゆうだい)を設置し,甥の藤原仲麻呂を長官に登用し,娘の孝謙天皇に代わって実質的に皇権を行使した。ついで756年に聖武太上天皇が没すると,その遺愛の品々を東大寺に献納したが(正倉院宝物),なかには自筆の《楽毅論》や《杜家立成》も含まれていた。さらに藤原仲麻呂が大炊(おおい)王を立太子させ,橘奈良麻呂ら反対派との対立が激化すると,両派の衝突回避に努力したが,それも空しく橘奈良麻呂の変が起こった。変後大炊王が淳仁天皇として即位すると,天平応真仁正皇太后の尊号を受けたが,仲麻呂の専権がピークとなる760年6月に没した。年60,大和国添上郡佐保山(〈諸陵式〉佐保山東陵)に葬られた。《万葉集》に歌数首がある。
執筆者:

光明皇后は,女性でしかも皇后の身でありながら,仏の教えを実践した人として伝えられ,中世に入って仏教が庶民の間に浸透して行く中で,賛仰の対象となった。光り輝くほどに美しい女性であったという伝説は,光明子という名にも由来するが,法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられた(《七大寺巡礼記》)ためでもある。また皇后は浴室を建てて貴賤を問わず入浴させ,1000人のあかを落とそうと決意したが,1000人目に癩におかされた男があらわれたので,さすがにちゅうちょしたものの,勇を鼓してその体を洗い,さらに男の求めに応じて膿を吸ったところ,男は大光明を放って自分は阿閦(あしゆく)仏であると告げたという話(《宝物集》《元亨釈書》)は広く知られている。そのほか,諸芸にすぐれ,仏法の興隆に尽くしたとする伝説は多いが,仏教の盛時とされる天平時代の皇后を賛仰の対象としたところに,日本人の仏教信仰の一面があらわれている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「光明皇后」の意味・わかりやすい解説

光明皇后【こうみょうこうごう】

聖武天皇の皇后。父は藤原不比等(ふひと),母は橘三千代。出家して光明子(こうみょうし),諱(いみな)は安宿媛(あすかべひめ)。729年臣下の女としては異例の皇后となる。天皇とともに仏教を厚く信仰し,また悲田(ひでん)院施薬(せやく)院を設け孤児や病人の救済に努力。自筆の《楽毅(がっき)論》が正倉院にある。
→関連項目皇后宮職正倉院橘三千代藤原仲麻呂

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朝日日本歴史人物事典 「光明皇后」の解説

光明皇后

没年:天平宝字4.6.7(760.7.23)
生年:大宝1(701)
奈良時代の皇后。藤原不比等と県犬養三千代の娘。名は安宿媛。光り輝く美しさから光明子といったとも。16歳で首皇子(聖武)の妃になる。聖武即位後に生まれた基皇子は,立太子後まもなく死去。長屋王の変で障害を除いたのち,天平1(729)年,藤原氏の希望を担って「しりへ(後)の政」を行う皇后になった。父不比等から主要な財産,邸宅を受け継ぎ,邸内に皇后宮職を設置。施薬院,悲田院を置き,国分寺,国分尼寺,東大寺の創建を天皇に勧めて実現させるなど,仏教の広布に力を尽くす。ここから後世,浴室で自ら1000人の垢を洗い,癩病患者の膿を吸いとったという伝説も生まれた。天平勝宝1(749)年,娘阿倍内親王(孝謙)の即位に伴い皇太后となり,皇后宮職を拡充した紫微中台を設置,甥の藤原仲麻呂を長官に任じて実質的に国政を掌握した。同6年には聖武,孝謙と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒。同8年,聖武が崩じると,遺愛の品を東大寺大仏に献じた。現在の正倉院宝物である。願文の「先帝の好まれた品々をみるとありし日を思い泣き崩れてしまう」との言葉にも,夫聖武への想いがにじむ。自筆の書に残る「藤三娘」の自署や,「積善藤家」の印には藤原氏の隆盛を担う者としての自負がうかがえ,聖武のきまじめで繊細な筆跡と比較して,のびのびとした剛胆さが指摘されている。同時期の中国の則天武后に自らをなぞらえていたとの見方もある。<参考文献>林陸朗『光明皇后』

(義江明子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「光明皇后」の意味・わかりやすい解説

光明皇后
こうみょうこうごう
(701―760)

聖武(しょうむ)天皇の皇后。藤原光明子(こうみょうし)。名は安宿媛(あすかべひめ)。のち中台天平応真仁正皇太后(ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいこう)。父は藤原不比等(ふひと)、母は橘三千代(たちばなのみちよ)。716年(霊亀2)皇太子首(おびと)親王妃となり、724年(神亀1)首親王が即位して聖武天皇となるとともに夫人となり、729年(天平1)長屋王の変の後まもなく臣下の女としては異例の皇后となったが、当時皇后は天皇と並んで国政に参画する伝統があり、以後藤原氏の政界活動のよりどころとなった。立后と同時に皇后宮職(こうごうぐうしき)が置かれたが、749年(天平勝宝1)には昇格して紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、長官に藤原仲麻呂(なかまろ)が就任するに及んで、ここは実質的に政治を主導するところとなった。皇后は天皇とともに仏教を深く信仰し、国分寺の建立、東大寺大仏の造営などを積極的に勧めたといわれ、病人や孤児の救済のため施薬院(せやくいん)や悲田院(ひでんいん)など福祉施設をつくったことでも知られる。孝謙(こうけん)天皇の母。陵は佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)と称し、奈良市法蓮(ほうれん)町にある。

[押部佳周]

『林陸朗著『光明皇后』(1961・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「光明皇后」の意味・わかりやすい解説

光明皇后
こうみょうこうごう

[生]大宝1(701)
[没]天平宝字4(760).6.7.
聖武天皇の皇后。藤原不比等の第3女。名を安宿媛 (あすかべひめ) ,のち光明子という。霊亀2 (716) 年皇太子時代の聖武天皇の妃となり,のちに孝謙 (称徳) 天皇となった阿倍皇女,基皇子を出生。天平1 (729) 年天皇即位とともに臣下として初めて皇后位につき,皇后宮職で写経事業を行い,同 12年の日付の写経『五月一日経』が現存する。また,自筆と伝える皇后書写の『楽毅論 (がっきろん) 』が正倉院に伝存する。同2年悲田院施薬院を設立し,東大寺大仏,国分寺の創建にも努力した。天平感宝1 (749) 年天皇退位後は皇后宮職を改称した紫微中台 (しびちゅうだい) をおき,甥の藤原仲麻呂を長官として権勢をふるった。陵墓は奈良市法蓮町の佐保山東陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「光明皇后」の解説

光明皇后
こうみょうこうごう

701~760.6.7

聖武天皇の皇后。名は安宿媛(あすかべひめ)・光明子。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養(あがたいぬかい)三千代。716年(霊亀2)聖武の皇太子時代に入内し,即位後夫人をへて,729年(天平元)長屋王の変後に皇族以外からはじめて立后。女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると,皇后宮職を改組して紫微中台(しびちゅうだい)に権力を集中,事実上天皇大権を掌握した。仏教をあつく信仰して大規模な写経事業を行い,国分寺建立・大仏造立もすすめ,また施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会救済事業にも尽くした。正倉院宝物は,聖武の一周忌に遺品を東大寺に献納したもの。光明の書「楽毅(がっき)論」「杜家立成(とかりっせい)」は力強い筆致で,男性的な性格がうかがえる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「光明皇后」の解説

光明皇后 こうみょうこうごう

701-760 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇后。
大宝(たいほう)元年生まれ。藤原不比等(ふひと)の娘。孝謙天皇の母。天平(てんぴょう)元年(729)臣下からはじめて皇后となり,藤原氏の勢力拡大に寄与する。仏教に帰依(きえ)し,国分寺の建立や東大寺大仏の造営をすすめ,施薬院,悲田院をもうけて病人や孤児をたすけた。天平宝字4年6月7日死去。60歳。名は安宿媛(あすかべひめ),光明子。

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旺文社日本史事典 三訂版 「光明皇后」の解説

光明皇后
こうみょうこうごう

701〜760
奈良時代,聖武天皇の皇后
父は藤原不比等,母は橘三千代。孝謙天皇の母。名は光明子。729年長屋王の変後,皇族以外で初の皇后となり,これにより藤原氏の地位が確立。聖武朝の仏教興隆は皇后の力によるところが大きいといわれる。また施薬院・悲田院を設け老病貧者を救った。聖武天皇譲位後,皇后宮職を改称した紫微中台 (しびちゆうだい) を設け,甥藤原仲麻呂をその長官とした。

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世界大百科事典(旧版)内の光明皇后の言及

【乙姫】より

…熊野と天王寺は観音めぐりの拠点で,この乙姫の姿には,あるき巫女の姿が重なり,さらに観音のイメージが強く投影している。乙姫は後に清水観音の夢告によって鳥掃という呪具を得,それで信徳丸の体をなでて病を治すが,乙姫のような女性像の前身には《元亨釈書(げんこうしやくしよ)》にのる光明皇后の垢摺(あかすり)供養伝説が考えられる。湯施行(ゆせぎよう)を始めた皇后の前に1人の癩人が現れ,体のうみを吸いとってくれと願う。…

【慈善事業】より

…長距離の旅を強いられた律令制下の農民は途中で死亡する者も多く,政府の対策も不十分であっただけに注目され,のちに東大寺が大和に布施屋を設置し,平安時代には一部の地方官吏らにより続命院・救急院・悲田処ほか類似の施設が各地に設置された。 つぎに仏教に関心の深かった光明皇后の活動も著名である。施薬院悲田院の設置は藤原氏の氏寺であった興福寺に置かれた先例があるが,光明子が皇后宮職にそれらを設置した意義は注目され,のちに孝謙女帝も興福寺の施薬院を財政面で援助し,弘仁年間(810‐824)には淳和天皇の皇后正子内親王が病気の僧尼のための済治院や癩病患者専門の不譲化身院を嵯峨の大覚寺に設けた。…

【紫微中台】より

…令,弼,忠,疏の四等官22名がおかれた。もと光明皇后の意志の伝達,日常生活等を営むために729年(天平1)設置された皇后宮職を改称したものである。孝謙天皇の即位にともなって光明皇后が皇后から皇太后へかわったことに際してとられた措置であるが,紫微中台の長官(紫微令,後に紫微内相)に藤原仲麻呂が任命され,光明皇后との密接なつながりを官職上ももったことが注目される。…

【正倉院】より

…奈良の東大寺大仏殿の裏手に当たって見える白壁に囲まれた一郭の通称。ここの正倉には8世紀,奈良時代の文化を具体的に伝える多くの遺品が収蔵されている。大陸から舶載されたものも多く,それらは唐代の文化の粋を示すとともに,唐代の文化が受け入れた西方諸地域の文化の姿をも伝えており,古代の東西文化の交流について多くの資料を提供している。
[宝物の献納と管理]
 756年(天平勝宝8)6月21日,聖武太上天皇没後49日の忌日に当たり,光明皇太后は書跡,服飾品,楽器,調度品,刀剣その他天皇遺愛の品を中心に六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に献納し,その冥福を祈った。…

【聖武天皇】より

…聖武天皇の即位に備えて,平城宮では以前から大改作工事が実行されていた。その後宮としては,藤原不比等の女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后),県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ),藤原武智麻呂の女(名前不明),同じく房前の女など4夫人の存在が知られ,このうち安宿媛との間に某王(基(もとい)王)と阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の2子,県犬養広刀自との間に井上(いかみ)内親王,不破内親王と安積(あさか)親王の3子をもうけた。727年閏9月安宿媛が出産した某王(基王)は,藤原氏の期待をになってただちに立太子されたが,翌年9月死亡した。…

【橘三千代】より

…後に藤原不比等(ふひと)に接近し,彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となり,ついに美努王のもとを去り不比等と再婚した。701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと,三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み,再び乳母となって首皇子を養育した。このため,持統・元明女帝の信任はすこぶる厚く,これが不比等を側面からたすける力ともなった。…

【長屋王の変】より

…ここに藤原氏は目的を達したのである。以後,藤原氏は光明皇后とその4兄弟を中心に政界を領導していった。【栄原 永遠男】。…

【奈良時代】より

…やがて事件が落着すると,瑞亀の献上によって天平と改元,ついで安宿媛は仁徳皇后磐姫の先例にならうという宣命とともに,臣籍ではあるが聖武天皇の皇后となった。世にいう光明皇后である。 かくて長屋王の変以後は,大納言から間もなく右大臣に進んだ藤原武智麻呂(南家)を中心に,参議に列した中務卿藤原房前(ふささき)(北家),式部卿藤原宇合(うまかい)(式家),兵部卿藤原麻呂(京家)ら不比等の子息四卿が政権を掌握した。…

【悲田院】より

…奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設。723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見で,その後諸大寺にも設けられ,730年(天平2)光明皇后によって皇后職に悲田,施薬の両院制が公設され,奈良・平安時代を通じ救療施設の中心となった。仏教の博愛慈恵の思想にもとづいてはいるが,唐の開元の制度に倣った施設で,悲田院の名称も唐制の踏襲である。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【法華寺】より

…正しくは法華滅罪之寺といい,氷室御所ともいう。藤原不比等の旧宅があった平城左京一条三坊の地に,光明皇后の皇后宮が設けられ,745年(天平17)宮寺(みやでら)に改められたのが法華寺の始めと考えられ,大和国国分尼寺(国分寺)として漸次整備された。天平19年(747)1月の《正倉院文書》に法華寺の寺名が初見する。…

【癩】より

…のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされた。光明皇后が癩者の膿を吸ったという伝説があり,鎌倉時代の僧忍性(にんしよう)は奈良の北山十八間戸(けんと)と鎌倉の極楽寺に癩宿をつくり,救癩活動を始めている。 江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ,社会から締め出された癩者は,四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していた。…

※「光明皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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