宋時烈(読み)そうじれつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宋時烈」の意味・わかりやすい解説

宋時烈
そうじれつ
(1607―1689)

朝鮮、李朝(りちょう)の学者、政治家。字(あざな)は英甫(えいほ)、号は尤庵(ゆうあん)、諡号(しごう)は文正。当時は党争の繰り返しによって西人と南人とが争い、南人が敗れ、西人が少論と老論に分かれたが、その老論の領袖(りょうしゅう)として活躍し、第17代孝宗時代には清(しん)に対する北伐計画を主張、推進。孝宗の次の顕宗時代以後、南人や少論と激しい党争を繰り返し、次の粛宗により死を賜った。一生を朱子学に没頭した巨儒で、栗谷李珥(りっこくりじ)の学統を継ぎ畿湖(きこ)学派の主流をなし、服喪に関する礼論にも明るく多くの学者を養成した。著書に『朱子言論同異攷(どういこう)』『宋子(そうし)大全』『朱子大全箚疑(さつぎ)』などがある。

[山内弘一 2016年10月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「宋時烈」の意味・わかりやすい解説

宋時烈 (そうじれつ)
Song Si-(r)yǒl
生没年:1607-89

朝鮮,李朝の文臣,儒者。字は英甫。号は尤庵,華陽洞主。忠清南道恩津の人。老論派の領袖で4代の王に仕え,官は左議政に至る。孝宗(在位1650-59)のとき,王意を承けて,軍事力を整備し清に対する北伐計画を推進した。顕宗(在位1660-74)時代以後,激しい党争の中で浮沈し,1680年南人派が一掃されると政権をとったが,西人派中の少壮派である少論と対立し,再進出した南人派の政権によって済州に流され,さらに井邑に移されて賜死した。李珥(栗谷)の学統を継ぐ金長生・金集父子の門人で,朱子学研究に没頭し畿湖学派の主流をなした。李滉(退渓)の四端七情理気互発説を排撃するため《朱子言論同異考》を著し,礼論にも明るく,権尚夏など多くの学者を養成した。著書に《宋子大全》《朱子大全劄疑》等がある。諡号(しごう)は文正。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宋時烈」の意味・わかりやすい解説

宋時烈
そうじれつ
Song Siyǒl

[生]宣祖40(1607)
[没]粛宗15(1689)
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) の学者,政治家。忠清南道論山郡恩津面出身。小字は聖賚 (せいらい) 。字は英甫。号は尤菴 (ゆうあん) 。諡は文正。4代の王に仕え,左議政になった。李栗谷の学統を継承し,畿湖学派の主流をなす朱子学者で,門下生から多数の名宰相が出た。また西人派の首領として特に孝宗に重視され北伐計画を推進したが,孝宗の死とともに中止。一時配流されたが,粛宗6 (1680) 年政界に復帰した。西人派が老論,少論の2派に分裂したのち老論派の領袖となり,同 15年立太子の件で粛宗の怒りを買い死を賜わった。著書に『宋子大全』『尤庵集』『朱子大全とう疑 (とうぎ) 』『程書分類』『朱子語類小分』『論孟問義通攷』『心経釈義』『沙渓先生行状』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の宋時烈の言及

【党争】より

…孝宗・顕宗代(1650‐74),西人と南人の間で,王妃の死去に伴う服喪期間=礼論の対立(実際は孝宗の王位継承にかかわる論争)があり,その結果,1675年には南人政権ができたが,80年,西人は新王擁立を企てたとして南人を追放し,政権を掌握した。西人の宋時烈らは朱子学の批判・修正をいっさい認めず,反対派に反逆者,賊臣の烙印を押して処刑したりしたため,党争ははげしさを増した。西人は83年に老論派(宋時烈派)と少論派(反宋時烈の少壮派)に分裂したが,1721年に少論派が権力を掌握した一時期を除き,以後,大院君政権成立(1863)前まで,西人の老論派が政界を支配した。…

※「宋時烈」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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