宍
浦
ししくいうら
現町域の南東部に位置し、北は那佐湾、南は竹ヶ島に及ぶ。地内の正梶で宍喰川が海に注ぐ。古目の沖に四島・サビ島・鹿子居島・鈴碆・ウバエ島などが浮ぶ。那佐の北に土佐街道筋の馬路越がある。「日本書紀」履中天皇六年二月条に「阿波国の脚咋別」とみえ、脚咋別および讃岐国造の二族の始祖は鷲住王であると記されるが、宍喰はこの脚咋別の転訛とする説がある。地内の大日寺が所蔵する大般若経(五六九帖、県指定文化財)は建永元年(一二〇六)頃から建暦三年(一二一三)にかけての書写を含み、筆師願主は重慶とある。永正九年(一五一二)八月の津波のあと、正梶・古目を含む南町は体裁を失い、北町に宍喰浦の中心が移されたという。本木氏を主将とする宍喰城があり、天正三年(一五七五)に落城したと伝える(城跡記)。地内の願行寺境内に同一八年銘の逆修板碑があり、「宍喰野中助兵衛夫婦」が大三妙典経六六部を奉納したことなどが記される。
天正一七年三月三日の土佐国安芸郡浅間庄地検帳(長宗我部地検帳)に「阿州宍咋ト土州甲浦トノ国堺東ハ甲浦トウケ限リ」、同年二月二六日の野禰村地検帳(同文書)に「奥ハ阿州宍咋、堺ハ牛ノ石ヲ限リ」と記される。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「志ゝくい」「志ゝくい谷」とみえる。正保国絵図では「宍喰浦」として高一千七二〇石余で、また宍喰のうちとして東谷村・那佐村・要村(「かなめ」の訓)・日比原村・窪村・尾崎村・芥付村・角坂村・塩深村・日浦村・日比宇村・船津村・僧都村・くわう村・阿瀬川村・中野村および竹ヶ島が記される。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳ではこの一七ヵ所に加えて広岡村・北河内村ともに枝村としており、田方一千三三〇石余・畠方三九〇石余、芝山・生山の注記がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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