日本歴史地名大系 「宗谷村」の解説 宗谷村そうやむら 北海道:宗谷支庁稚内市宗谷村[現在地名]稚内市大字宗谷村字増幌(ますほろ)・字富磯(とみいそ)・字宗谷・字第一清浜(だいいちきよはま)・字第二清浜(だいにきよはま)・字珊内(さんない)・字大岬(おおみさき)・字豊岩(とよいわ)明治一一年(一八七八)一〇月に成立した宗谷郡の村。南東は泊内(とまりない)村、南西は声問(こえとい)村、北・西は海に面する。近世にはソウヤ場所の運上屋が置かれた。谷口青山沿岸図(寛政一〇年、市立函館図書館蔵)に「ソウヤ」とみえ、「リヤコタン」より一里、「チヱトマヘ」までおよそ六里半。当村の中心地は「ウエントマリ」と称し(状況報文)、「西蝦夷日誌」には「ウエン泊岩磯始て弁財を下せし時、此処ウエン泊と土人が云しが字となりし也。本名はパラキナイ運上屋の南の小沢也也。コタンバ入口村の入口と云儀」などとある。一六九六年(元禄九年)泰山(利尻島)に漂着した朝鮮王朝の下級官吏李志恒ら八人は利尻(りしり)島から宗谷に着き、五日ほど滞在している(「漂舟録」など)。秋田藩の出張陣屋があり、夏季守備兵も置かれた(新北海道史)。「西蝦夷日誌」に「稲荷の社有。後ろに佐竹家陣屋有字ハラキヲマナイ、十五丁四方」とある。清浜の海岸には昭和三四年(一九五九)に建立された間宮林蔵渡樺出港の地碑があり、一八〇八年(文化五年)四月、間宮林蔵と松田伝十郎は幕命により同地からカラフト探検に出航したとされる。 宗谷村そうやむら 北海道:宗谷支庁稚内市宗谷村明治四二年(一九〇九)宗谷村・泊内(とまりない)村・猿払(さるふつ)村が合併して成立した宗谷郡の村。昭和三〇年(一九五五)まで存続した。明治四二年四月一日に成立し二級町村制を施行。大正一三年(一九二四)一月一日に猿払村が分村独立した。明治四五年宗谷村農会が設立され、大正四年には宗谷漁業組合が宗谷と稚内の漁業協同組合に分割された(稚内市史)。大正一一年には宗谷海峡一帯が結氷し、船舶の航行が不能となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by