松田伝十郎(読み)まつだ・でんじゅうろう

朝日日本歴史人物事典 「松田伝十郎」の解説

松田伝十郎

没年:没年不詳(没年不詳)
生年明和6(1769)
江戸時代の蝦夷地探検家。越後貧農の家に生まれたが,同地で道路工事の監督をした幕吏松田伝十郎に才能を見いだされて養子となり,仁三郎を名乗り,文化5(1808)年伝十郎を襲名した。寛政11(1799)年幕府東蝦夷地直轄に際して蝦夷地勤務を志願し,それ以後文政5(1822)年の松前藩復領に至るまで,多くの期間を北海道,エトロフ島,樺太の経営に従事した。特に文化5年には間宮林蔵と共に樺太奥地を調査してその離島であることを確認し,その後4度にわたり樺太経営の責任者として同地のアイヌ住民の救恤に努力した。その間文化5年には松前奉行調役下役元締となり,同10年ロシア士官ゴローニン一行の釈放に際しては,松前から箱館までの護送責任者を勤めている。その蝦夷地における活躍ぶりは著書北夷談』によって知られる。

(秋月俊幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松田伝十郎」の解説

松田伝十郎 まつだ-でんじゅうろう

1769-1843 江戸時代後期の探検家。
明和6年生まれ。越後(えちご)(新潟県)の農漁業浅貝源右衛門の子。幕臣松田伝十郎の養子となり,その名をつぐ。寛政11年幕府の東蝦夷地(えぞち)直轄に際して蝦夷地御用掛となる。文化5年間宮林蔵とともに樺太(からふと)を探検,林蔵よりさきに樺太が島であることを発見した。文政5年24年間にわたる蝦夷地御用を免じられ,支配勘定役となる。天保(てんぽう)14年死去。75歳。名は元敬。著作に「北夷(ほくい)談」など。
格言など】カラフトは離島なり 大日本国々境と見きわめたり(新潟県柏崎市にある碑文)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「松田伝十郎」の解説

松田伝十郎
まつだでんじゅうろう

1769~?

近世後期の幕臣・北方探検家。越後国頸城郡鉢崎村の農民の子。のち幕府小人目付松田伝十郎の養子となる。1799年(寛政11)蝦夷地御用掛となり東蝦夷地に赴く。1803年(享和3)箱館奉行支配調役下役として択捉(えとろふ)島に至り越年。08年(文化5)間宮林蔵とともに樺太見分の命をうけ,林蔵にさきだち樺太が島であることを確認した。のち山丹(さんたん)交易の改善,ゴロブニン一行の護送にかかわった。著書「北夷談」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松田伝十郎」の意味・わかりやすい解説

松田伝十郎
まつだでんじゅうろう

[生]明和6(1769).江戸
[没]?
江戸時代後期の幕臣。名は元敬。寛政 11 (1799) ~文政4 (1821) 年幕府が蝦夷地を直轄したとき,松前奉行支配調役下役元締として現地事務にあたった。間宮林蔵と樺太 (サハリン島) 探検にも従事し,そのときの記録『北夷談』 (一名『松田氏四六筆記』) の著書がある。

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世界大百科事典(旧版)内の松田伝十郎の言及

【越後国】より

…村上の人本多利明は1798年(寛政10)《西域物語》を著して西洋の事情を紹介,日本のとるべき立場を述べた。松田伝十郎は間宮林蔵とともに樺太に渡り,1808年(文化5)間宮海峡を発見した。43年幕府は北海防御の台場を築くため新潟町を幕領とし,奉行所を設置した。…

※「松田伝十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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