北海道の最北端にある市。道北の中心都市の一つ。1949年(昭和24)市制施行。1955年宗谷(そうや)村を編入。宗谷総合振興局所在地。市名はアイヌ語ヤムワッカナイ(冷たい水の出る沢の意)に由来する。JR宗谷本線、国道40号、238号が通じる。JR天北線(てんぽくせん)は1989年(平成1)廃止、バス転換。稚内港からは利尻(りしり)、礼文(れぶん)両島にフェリーが通い、稚内空港は東京(羽田)、新千歳を結んでいる。また1991年のソ連崩壊後、樺太(からふと)(サハリン)との交流が盛んとなり、1995年コルサコフとの間に定期船が就航した(2019年から休止)。
東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷岬と野寒布岬(のしゃっぷみさき)との間に宗谷湾を抱く。宗谷湾に面して幕別平野(まくべつへいや)が広がるが、市域の大部分は樹木の少ない宗谷丘陵などが占める。中心市街は宗谷湾西岸の稚内港を中心に発達する。
江戸時代は宗谷岬の西側に松前藩の宗谷場所が開かれニシン漁で繁栄したが、1888年(明治21)道北の行政の中心は宗谷から稚内に移った。1923年(大正12)樺太の大泊(おおどまり)(コルサコフ)との間に連絡船が就航して交通上の要地となった。第二次世界大戦後一時停滞したが、1957年(昭和32)稚内港が重要港湾に指定され、市街南部の埋立地造成、港湾整備などが行われ、魚市場、石油基地がつくられたほか、水産加工業も活発となり、ニシンにかわってスケトウダラ、ホッケ、イカナゴなどの北洋漁業の基地として全国屈指の水揚げ量を示すこともあった。1977年以降、漁業水域が200海里に制限され大打撃を受けたが、ホタテ、コンブ、ウニなどの資源育成や、ソ連崩壊後はロシア漁船の入港などで、現在もなお水産業は基幹産業である。また稚内港はサハリン大陸棚(たいりくだな)石油系資源の開発拠点ともなっている。1931年(昭和6)~1936年に建造された北防波堤ドームはギリシア神殿を思わせるような偉容を誇る港湾歴史建造物である。農業は酪農を主とし乳牛約1万5000頭(2015)を飼育するほか、肉牛飼養も導入された。市街背後の海岸段丘上には稚内公園があり、樺太を遠望できる。寒流水族館のある野寒布岬、日本の最北地宗谷岬、大沼北岸の道立宗谷ふれあい公園などの観光地があり、日本海沿いの原生花園は利尻礼文サロベツ国立公園の一部で、観光も水産、酪農と並ぶ主産業の一つとなっている。面積761.47平方キロメートル、人口3万3563(2020)。
[岡本次郎]
『『稚内百年史』(1978・稚内市)』
北海道北部,宗谷海峡に面する日本最北端の市。1949年市制。人口3万9595(2010)。地名はアイヌ語の〈ヤム・ワッカ・ナイ(冷たい・水・川)〉に由来する。西は日本海,東はオホーツク海に臨み,北西の野寒布(のしやつぷ)岬と北東の宗谷岬との間に宗谷湾を抱く。市域の大半は樹木の少ない丘陵地である。中心市街は宗谷湾西岸の稚内港(重要港湾)を中心に発達し,宗谷支庁がある。JR宗谷本線の終点で,国道40号線が通じ,238号線を分岐している。稚内港からは利尻・礼文(れぶん)両島へフェリーが通じる。宗谷湾東岸の宗谷は貞享年間(1684-88)に宗谷場所が設置され,江戸時代中期から1888年に諸官庁が稚内へ移るまで,宗谷郡,オホーツク海沿岸一円を統轄する中心地であった。明治末期からは樺太(からふと)(サハリン)との連絡基地として重要性を増し,1922年には鉄道(宗谷本線)が開通,交通の要地ともなった。第2次大戦後は水産都市として発展した。現在も基幹産業は水産業で,北洋の沖合底引網漁業を中心にスケトウダラ,ホッケなどの漁獲やホタテガイ,ウニ,コンブなどの養殖が行われ,水産加工業も盛んである。農業は幕別平野などでの大規模な酪農と肉牛生産を主とする。サハリンを遠望する稚内公園や宗谷岬,野寒布岬など景勝地が多く,南西海岸は利尻礼文サロベツ国立公園に含まれる。95年4月サハリン定期航路が就航し,2008年現在5~10月季節運航している。稚内空港から札幌などや利尻・礼文両島への航空路がある(2003年利尻・礼文両便は廃止)。
執筆者:奥平 忠志
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