官房学派(読み)かんぼうがくは

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

官房学派
かんぼうがくは
Kameralismusドイツ語

カメラリスムスともいう。17~18世紀のドイツ、オーストリアの領邦制のもとで発達した行政、財政、経済政策の包括的政治思想の体系。[一杉哲也]

展開

神聖ローマ帝国が三十年戦争(1618~48)によって事実上解体され、帝国を構成していた諸領邦は、専制君主たる領主のもとでそれぞれに殖産興業、富国強兵、領主の収入増加を図ることによって、フランス、トルコなどの強国に対抗しなければならなくなった。こうした行政、財政、経済上の諸政策提言のための学問的体系として、まず前期官房学派が出現する。それは、ザクセンの高級官僚ゼッケンドルフVeit Ludwig von Seckendorff(1626―92)の『ドイツ王侯国家論』(1656)にみられるような主として小領邦向けと、オーストリアのホルニクPhilipp Wilhelm von Hornigk(1640―1714)の『オーストリア至上論』(1684)のような大領邦向けとに分類されよう。
 しかし、領邦間ならびに諸外国との抗争のなかから、大領邦の優位さが確立されるにつれ、大領邦の行政官僚教育のための学問的体系としての後期官房学派が成立する。ドイツのユスティJohannes Heinrich Gottlob von Justi(1717―71)、オーストリアのゾンネンフェルスJoseph von Sonnenfels(1732―1817)がその代表であり、彼らは近代財政学の一つの出発点とされている。[一杉哲也]

特徴

官房学派は、専制君主下の殖産興業・富国強兵の策という意味で、重商主義思想の一つともいえよう。しかし西ヨーロッパのそれが市民社会・国民国家形成への契機となったのに比べると、官房学派は領邦・領主のためという視点を超えることができず、財源涵養(かんよう)と行政体系重視の国家学的水準にとどまっていた。
 また、後期官房学派隆盛のころイギリスに成立したスミスの財政学は、国家ないし君主の有産的経済つまり財政を、市民社会=国民経済と対立・矛盾するものとしてとらえ、批判して、後者の立場から資本主義財政を統一的に理解しようとした。古典派経済学を基盤とした経済学的財政学の成立である。これに対して官房学派は、その基盤に国民経済に関する経済学をもたず、国民経済と領邦的国家経済とが対立・矛盾するという視点ももちえなかった。
 こうしたことが、1806年神聖ローマ帝国の最終的消滅とともに、ドイツの国民的統一と立憲政治への新たな欲求が生じたのに対して、官房学派がなんら対応しえずその幕を閉じるに至った原因といえよう。[一杉哲也]
『大川政三・小林威編著『財政学を築いた人々』(1983・ぎょうせい)』

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