宝光寺跡(読み)ほうこうじあと

日本歴史地名大系 「宝光寺跡」の解説

宝光寺跡
ほうこうじあと

[現在地名]和歌山市黒岩

和歌山市南東部、海南市との境をなす旗揚はたあげ山中腹に位置したが、現存しない。「続風土記」によると楊柳山宝福院と号し、新義真言宗根来ねごろ(現和歌山県岩出町)律乗りつじよう院末であったと伝えるが、明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺(鎌倉極楽寺文書)および永享八年(一四三六)の西大寺坊々寄宿諸末寺帳(西大寺文書)に紀伊国宝光寺がみえ、中世には奈良西大寺の末寺であった。

「紀伊国名所図会」によると天長年間(八二四―八三四)空海の開基で、元亨年中(一三二一―二四)に心浄が中興し、その後数次の兵乱で焼亡衰微したという。紀州志略(大阪府立中之島図書館蔵)では心浄を草創者とし、天正一三年(一五八五)羽柴秀吉の紀州攻めの際に焼亡したとしている。

宝光寺跡
ほうこうじあと

[現在地名]田代町麓 岩崎

旧田代高校跡地にあった曹洞宗寺院。妙浄山と号し、鹿児島福昌寺末、本尊阿弥陀如来(三国名勝図会)。元中―明徳年間(一三八四―九四)頃に田代肥前守以久が田代のおに宇都うとに建立したと伝え、開山は竹窓知厳。開山より五世まで鬼ヶ宇都にあったが、六世荘山守厳の代に旧田代高校跡の地に移され、園林おんりん(現根占町)四世梅屋宗英を中興開山としたという(以上「三国名勝図会」「田代郷土誌」)。禰寝氏にも崇敬され、島津日新(忠良)の嫡女阿南(於南、法名月庭桂秋大姉、肝付兼続の妻)位牌も安置されていたという(田代郷土誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android