黒岩村(読み)くろいわむら

日本歴史地名大系 「黒岩村」の解説

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]北上市黒沢尻町くろさわじりちよう 黒岩

北上川左岸にあり、北は湯沢ゆざわ村など、東は仙台藩領水押みずおし村。岩谷堂いわやどう(現江刺市)に向かう道が中央部を南北に走り、北の平沢ひらさわ村から南の立花たちばな村に通じた。土沢つちざわ(現和賀郡東和町)への道は東の二子ふたご村から黒岩船場で北上川を渡り、湯沢村に通じる。字宿しゆくで江刺郡水押村に至る道を分岐する。西は北上川に面する沖積低地で、低地の東は段丘、山間高地となっている。段丘上に縄文時代中期の土器が広く包含されている。通称丈六じようろくといわれる地に大礎石をもった堂跡があり、西方に瓦葺の堂跡もある。出土した土器から平安時代後期の白山寺跡と考えられている。小字に神行田しぎようだ鴻之巣こうのす四十九里すずくり五月田ごがでなどがあり、平泉との関連で名付けられたと伝える。

承久の乱後苅田義行が和賀に下向して当地の岩崎いわさき(館)に拠り和賀氏を称した(北上市史)。のち時期は不明だが和賀氏は更木さらき城に移る。応安三年(一三七〇)一〇月八日黒岩郷内和賀左近将監跡が鬼柳式部大夫五郎に安堵された(「石橋棟義奉書」只野文書写)。同四年一〇月一三日には鬼柳常陸入道義綱が黒岩郷平経義跡を黒岩五郎に引渡すことを命じられており(「沙弥某奉書」鬼柳文書)、和賀氏の一族鬼柳五郎が黒岩氏を名乗ったことが知られる。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]福島市黒岩

鳥谷野とやの村の南、阿武隈川左岸に沿う。対岸は小倉寺おぐらじ村・渡利わたり村、南は伏拝ふしおがみ村、西は大蔵寺だいぞうじ村。村名は当村の阿武隈川の崖に奇巌怪石が乱立し、その色が黒いことに由来するという(信達二郡村誌)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫大仏しのぶだいぶつ方のうちとして「くろゆわ」とみえ、段銭は三貫四五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、黒岩のうち八郎内はちろううち在家・との内在家・宮の下みやのした在家が庄司うば・中野常陸介に与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三六四石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ、家数三二(役家八、肝煎二、寺・脇家二二)、人数六一、役木として桑・楮各少しがある。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]吉見町黒岩

御所ごしよ村の北にあり、北は山野下やまのした村・田甲たこう村。吉見丘陵が東の低地と交わる辺りを占め、地内立石たていしという所に黒色の岩石があったことが村名の由来という。古くは御所村と一村であったが、正保―元禄期(一六四四―一七〇四)の間に分村したという(「郡村誌」など)。小田原衆所領役帳に松山衆狩野介の被官小守太郎左衛門の所領として「六貫五百文 吉見郡黒岩郷」がみえる。田園簿によると田高一一二石余・畑高一〇四石余、幕府領

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]臼杵市した 黒岩・大間おおまみせ

中津浦なかつうら村の北に位置し、臼杵湾に東面する。村域は下ノ江川下流右岸の山裾付近から湾内に突出した小さな岬までを含む。北は下ノ江村。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳(渡辺家文書)に村名がみえ高五二石余、うち田方三四石余・畑方一七石余、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では藤田村組に属し同高、村役人に三郎・甚三郎を記す。正保郷帳でも同高で、臼杵庄に属した。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では井村組に所属、のち佐志生組に属した(万用集)

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]柿崎町黒岩

柿崎川上流の村で、北・東・南の三方を山々に囲まれ、集落は北・南に分れる。北西は城腰じようのこし村、南は狸平むじなだいら村、西は中山なかやま村。黒岩通が通る。永正七年(一五一〇)六月一八日付長尾為景書状(村山氏文書)に「黒岩」とみえ、五月二〇日の関東管領上杉顕定軍との合戦における村山直義の戦功を賞している。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分黒岩村 下」とみえ、本納六三石七斗六升七合・縄高一二九石五斗一升七合、家一一軒・三二人とある。また「小鮒峠米山寺ヨリ是迄弐十里」とみえ、正保国絵図には「黒石村二百□□石余」とある。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]富岡市上黒岩かみくろいわ下黒岩しもくろいわ

西部山中より流出するほし川が村央を東流、東は高尾たかお村、西は下高田しもたかた(現甘楽郡妙義町)、南は黒川くろかわ村・別保べつぽ村、北は碓氷うすい中野谷なかのや村・上間仁田かみまにた(現安中市)などと接する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方六三四石三斗余・畑方三三七石六斗余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田三八町七反四畝余・畑一〇九町六反四畝余。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]和田町黒岩・黒岩飛地くろいわとびち

中三原なかみはら村・小川おがわ村の北、三原川流域に位置する。三原村から分立した村で、元禄郷帳に村名がみえ、高三八五石余。元文村高帳でも同高、幕府領三〇石余・旗本京極四郎左衛門領一七七石余・同京極市十郎領一七七石余。四郎左衛門家領は元禄一〇年(一六九七)から、市十郎家領は宝永二年(一七〇五)からとみられる(寛政重修諸家譜)。京極二家領は天保一四年(一八四三)まで続くが、同年武蔵忍藩領となる(忍藩領郷村高帳)。幕府領三〇石余は天明元年(一七八一)館山藩稲葉氏領となる(「寛政重修諸家譜」、天保村高帳など)

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]和歌山市黒岩

名草なくさ郡に属し、和田わだ川最上流部にある。北西は南畑みなみばた村。東に那賀なが野上のかみ(現海草郡野上町)に向かう街道の馬路うまで峠を越えると同郡野尻のじり(現海南市)、南に小池こいけ坂を越えると同郡別院べついん(同市)。小名に稲葉谷いなばだに菖蒲谷しようぶだに有の木谷ゆのきだに藪垣内やぶがいと下垣内しもがいとがある。古代末期から中世にかけて山東さんどう庄に含まれた。

慶長検地高目録には「黒谷村」と記され高三五六石余、小物成五斗八升八合。「祖竹志」(湯橋家蔵)によると寛永九年(一六三二)に「黒岩けち新池新田」「黒岩とも淵新田」ができている。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]美川村上黒岩かみくろいわ中黒岩なかくろいわ

現美川村のほぼ中央、久万くま川が北からきた面河おもご川に合流する地点を占める。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高弐百七拾九石五斗五升 黒岩村 日損所、野山有、川有」とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も村名・村高同じであるが、天保郷帳(一八三四)では村高が三石六斗増している。しかしこの村は現地では早くから上黒岩・下黒岩に分村していたらしく、寛保元年(一七四一)頃の「久万山手鑑」の類では二村として記され、庄屋も違っている。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]佐川町黒原くろはら

黒岩郷諸村の中心として黒岩本村ともいい、北流する柳瀬やなぜ川が西へ屈曲する北岸にある。村名の黒岩について「土佐州郡志」に「黒岩、在本村南、伝云古伊勢国人齎小黒石来置於此、歴年為巨岩、里人毎年九月十五日祭之」とみえる。天正一八年(一五九〇)の黒岩村地検帳によれば、片岡氏の土居・古城とそれに伴う市場集落があり、家臣団と商人・職人団の集住傾向が看取されるが、佐川城番衆の給地も一部に認められる。同地検帳にみえる小村のうち山本やまもと源住げんじゆう(源重)台十だいじゆう(台住)が通称として残る。

元禄地払帳では総地高五四八石余、うち本田高五一六石余、新田高三二石余。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]大磯町黒岩

鷹取たかとり山の西の山間に広がり、東は生沢いくさわ村、西は西窪にしのくぼ村、北は大住おおすみ土屋つちや村・上吉沢かみきつさわ(現平塚市)に接する。西から北へ土屋道が通る。小田原衆所領役帳に大形「百貫四百三十文 国府癸卯検地辻 此外弐拾貫文黒岩村御料所ニ罷成」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛永一〇年(一六三三)旗本窪田・伏見領の二給。

延享三年(一七四六)の村明細帳(県史八)によれば伏見領の田九反余、畑屋敷五町三反余、窪田領の田二町三反余、畑屋敷一八町七反余。小田原宿の助郷を勤め、享保一九年(一七三四)の助郷高一一九石(「東海道小田原宿助郷帳」足柄上郡大井町武松文書)

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]相知町大字黒岩

松浦川中流の右岸にあり、大野おおの村の南。三方みかた山・平尾辻ひらおつじ山を背にし、松浦川のつくる川州の平坦地にある。

村中に巨大な黒岩があり、その岩にちなんでできた地名と伝えられる。「松浦古事記」にある建武五年(一三三八)の石垣山合戦についての交名注進状(向彦治郎氏蔵)に「黒岩尼代深江小五郎」と記され、有浦家文書の相知村内面々相伝系図に「梶山小次郎入道松鶴蓮賀(相知蓮賀)の妹黒岩女坊」と記される。中世に、松浦党の相知氏の一族黒岩氏が居住していたといえる。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]南淡町灘黒岩なだくろいわ

諭鶴羽ゆづるは山系の谷間を東へ下る黒岩川を隔て南は惣川そうかわ村。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「なだ」一〇三石六斗のうちに含まれ、正保国絵図に下灘しもなだ一二ヵ村の一として村名がみえる。同絵図では山間を牛馬が通れる三里の間道が諭鶴羽山頂を経て浦壁うらかべ(現三原町)牛内うしうち村へ続いている。享保元年(一七一六)の両国郷村高辻帳(蜂須賀家文書)では高一六石余。天保郷帳では高二四石余。油谷組に属した。反別戸数取調書によると反別九町三反余、高九一石余はすべて蔵入地。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]新発田市黒岩

中妻なかづま村の北、三日市みつかいち町・早道場はやみちば町の東に位置し、東に加治かじ(要害山)がある。はじめ村上藩領で、正保国絵図では二一〇石余。万治二年(一六五九)の検地帳(新発田市史資料)によると三日市組に属し、田一八町二反余で二三二石五斗余、畑五町四反余で二八石四斗余。宝永七年(一七一〇)幕府領となる。正徳二年(一七一二)の指出帳(同資料)では家数一八、人数一一三(男六三・女五〇)であるが、男女とも他所への身売人がいる。馬五、御林山一ヵ所。小物成には大豆・山手船頭米・鮭川役などがあり、加治宿の定助郷として一ヵ月に四日ずつ昼夜勤めた。享保九年(一七二四)三日市藩領、明和六年(一七六九)再び幕府領となる。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]越生町黒岩

今市いまいち村の北、大高取おおたかとり山の東麓、越辺おつぺ川右岸の低平地に立地。村名は付近の越辺川の中に黒い岩が多くあったからという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三石余・畑高一〇石余、幕府領(幕末に至る)。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高二六石余。新田検地が延享四年(一七四七)・寛政七年(一七九五)に行われた(風土記稿)。東部を江戸から上州へ至る道が今市村から成瀬なるせ村へ通り、道に沿って民家が並ぶ。北の外れから秩父への道が分岐していた。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]室生村大字黒岩

室生川支流の黒岩川上流、田口たぐち村東方に立地。「経覚私要鈔」長禄三年(一四五九)三月一三日条に「黒岩関二文」とあり、伊勢国に至る交通の要所であった。享保六年(一七二一)田口村(当時は下田口村と分村、上田口村を称す)から分離独立。村高一六二・四九七石。天保一三年(一八四二)と安政二年(一八五五)の名寄帳には三〇余軒と記す。幕府領。

当村宮城みやしろ垣内には熊野くまの神社が鎮座する。ミヤシロは神武天皇宮城の伝承地となっているが(宇陀郡史料)、熊野三社みやしろ権現にちなむ村名か。当村小字ホウジから石炭を採掘したと伝える。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]大分市安藤あんどう

河原内かわらうち川の上流西岸にあり、南西は貫原ぬきはる(現大野町)。大野郡に所属。江戸時代を通じて岡藩領。正保郷帳に村名がみえ田高一四石余・畑高一〇石余。土師はじ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高六九石余。寛文一三年(一六七三)五月一四日の大雨と洪水によって当村と東方肥後熊本藩領弓立ゆだち村境の河原内川岸が崩壊し、田地を埋めて河原となった。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]土庄町黒岩

皇踏おうと山東麓、伝法でんぽう川流域の山村で、南西は淵崎ふちざき村。九郷時代には淵崎郷枝村。宝暦明細帳によると高一七三石余・反別二四町余(田四町六反余・畑一九町四反余)、家数四七・人数二二一、牛二三・馬二〇。円満えんまん(現高野山真言宗)は十一面観音を本尊とし、寺伝によれば現在地より北東の慈恩寺じおんじ谷にあって慈恩寺と称したが、治承年間(一一七七―八一)当地へ移転し寿福院と改め、元禄年間(一六八八―一七〇四)円満寺となったという。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]門前町黒岩

上代うわだい村の北東、仁岸にぎし川北側の山麓台地に立地。黒岩城跡くろいわじようあとと通称する地があり、馬場ばんば城の支堡があったとみられている。正保郷帳では高一一一石余、田方五町四反・畑方二町余。承応三年(一六五四)の村御印の高一一四石余、免五ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二三石、免五ツ三歩、小物成は山役一〇五匁・苦竹役二匁(三箇国高物成帳)

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]坂祝町黒岩・加茂山かもやま

木曾川右岸河岸段丘上、郷部ごぶ山の南に位置する。東は大針おおはり村、西は深萱ふかがや村。広野の中に黒色の巨岩が立っているため村名と氏神名となったという(新撰美濃志)慶長郷帳では高七〇八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では同高で幕府領。同五年尾張藩領となり、正保郷帳では田方五六七石余・畑方一四〇石余・山年貢三石。明暦覚書によれば概高五六七石余で、慶安四年(一六五一)の人数二三二、馬二六。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]下山村黒岩

ともえ川に沿い、東は立岩たていわ村、南は神殿かんどの村、西は平瀬ひらせ村、北は栃立とちだち村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。県道平瀬―善夫線が通じる。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]芦北町黒岩

大河内おおかわち村から吉尾よしお川に沿って登り、銅山かなやまの手前を右に入った山上にある高地集落。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。田浦手永に属し、「国誌」は高三五石三斗余と記す。明治七年(一八七四)永谷ながたに村を合併。

黒岩村
くろいわむら

[現在地名]一宮市浅井あざい黒岩くろいわ

河田こうだ村の東にあたり、木曾川二重堤防の間に位置し、東側の用水路大江おおえ用水に近い小農村。木曾川端に黒い岩があるため村名にしたという(尾張志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android