日本歴史地名大系 「宮ノ口村」の解説 宮ノ口村みやのくちむら 高知県:香美郡土佐山田町宮ノ口村[現在地名]土佐山田町宮ノ口北(きた)村の北、物部(ものべ)川東岸に沿う。北は宮ノ口山で杉田(すいた)村に接する。片地(かたじ)郷(村)一三ヵ村の一で、北村を当村に含める場合もある。天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳には宮ノ口として八二筆が記され、その大部分は宮口名とある。しかし宮ノ口村域には杉田名もあり、また杉田村や北村中に宮口名の記載もある。物部川沿いの地は同地検帳記載の村と江戸時代の村域とが必ずしも一致しないようである。元禄地払帳では北村分を含めて宮ノ口村とし、本田高一一九・九七二石で蔵入地はなく二名の知行。新田高は一七三・二七三石で、貢物地三一石余以外は五名の役知。当村分のみの本田高は五九・九八六石(元禄郷帳)。 宮ノ口村みやのくちむら 京都府:綴喜郡田辺町宮ノ口村[現在地名]田辺町大字宮津(みやづ) 宮ノ口東を相楽郡菱田(ひしだ)村(現精華町)、南を同郡下狛(しもこま)村(現精華町)と接する綴喜郡南端の村。北は江津(えつつ)村、西は水取(みずとり)村。地名は朱智(しゆち)神社参詣道の入口に位置することによるという。元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に江津村の枝郷とし一四九・九三一石とある。享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳では一四九石余すべてが禁裏御料。所伝を近世に図示したと考えられる山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(「田辺町史」所載)には「朱智天王一大鳥居」の東に「宮ノ口村 貢米七十六石八斗七合、公事銭七貫六十六文」とあり、付近に「宮ノ口家ヤシキ」などを記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報