宮ノ町(読み)みやのちよう

日本歴史地名大系 「宮ノ町」の解説

宮ノ町
みやのちよう

[現在地名]米子加茂町かもちよう一―二丁目

堀端ほりばた町の北、ほぼ東西に通る道筋に沿う武家地。町名は加茂社・八幡社(現賀茂神社天満宮)を祀ることにちなむ。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図および享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに県立博物館蔵)には三社みやしろ町、近世中期以降のものとみられる伯州米子之図(同館蔵)では宮城みやしろ町とある。御社町とも記される(「米子御城下夫々間数」同館蔵)明和天明(一七六四―八九)頃の米子御城下図(同館蔵)では長さ一二五間・道幅五間、伊木・鷲見・荒尾・岩越・野村・山本氏ら米子組士の屋敷があり、幕末には米子荒尾家臣の屋敷もみられた。明治二一年(一八八八)調書(米子市史)では農五・商四・雑一三。

宮ノ町
みやのまち

[現在地名]島原市宮の町

島原城の北東なか町・かた町の北に位置し、東部は海に臨む。宮之町・宮ノ丁とも記す。町名は猛島たけしま大明神に由来するという。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳では別当支配として宮ノ町がみえ、五社が鎮座、社領は高二石余で、祭礼は九月一一日とする。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ一一〇間、南手に五社宮・猛島社、社倉蔵がみえる。同年の島原大変によるまゆ山の崩壊で「宮ノ丁庚申より東残らず」津波による被害を受け(島原大変聞録)、流死者数一六六(安養寺過去帳・晴雲寺過去帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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