新撰 芸能人物事典 明治~平成 「宮川泰」の解説
宮川 泰
ミヤガワ ヒロシ*
- 職業
- 作曲家,編曲家,指揮者
- 肩書
- おんがくの宮川代表取締役
- グループ名
- 渡辺晋とシックス・ジョーズ
- 生年月日
- 昭和6年 3月18日
- 出生地
- 北海道 留萌郡留萌町(留萌市)
- 学歴
- 京都市立美術大学(京都市立芸術大学)工芸科〔昭和26年〕中退,大阪学芸大学〔昭和31年〕中退
- 経歴
- 土木設計技士の子どもとして留萌市で生まれる。父は都山流の尺八免許を持っており、母は自己流で箏を弾いた。また家にはクラシックのレコードがたくさんあり、音楽に親しんで育つ。父の仕事の都合で各地を転々とし、北見に住んでいた頃に家1軒以上の値段をしたアコーディオンを買って貰い、日田では学校の講堂にあったオルガンを弾き、富田林高校では校長夫人に本格的にピアノを教わった。絵が得意だったため京都市立美術大学(京都市立芸術大学)に進んだが、アルバイトでピアノを弾いていたダンスホールで、ピアノが上手かった年配のピアニストに声をかけたところ大阪学芸大学(大阪教育大学)音楽科の主任教授だったのが縁で、昭和26年同大音楽科に編入。学業の傍ら、ジャズ・ピアニストとして小坂務とシックスサンズなどで活動し、後年には小坂の娘・明子のヒット曲「あなた」のアレンジを手がけた。31年大学を中退して上京、平岡精二クインテットに参加。この時、先に上京していた恋人(のち結婚)がピアノを買って待っていてくれたが、そのピアノは穐吉敏子が渡米に際して手放したものだった。33年渡辺晋とシックス・ジョーズに入り、その後、作曲家・編曲家として独立。渡辺が設立した渡辺プロダクションに所属する双子の歌手姉妹ザ・ピーナッツの育ての親として知られ、ザ・ピーナッツがレギュラー出演していたテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」で音楽を担当した他、38年「恋のバカンス」、39年「ウナ・セラ・ディ東京」が大ヒット、両作で日本レコード大賞の編曲賞・作曲賞を受賞。同番組のディレクターだったすぎやまこういちが作曲した「恋のフーガ」では、ティンパニを使用した印象的な前奏がすぎやまに喜ばれ、自他とも認める編曲の代表作となった。和製ポップスの開拓者の一人であり、他にも伊東ゆかり、園まり、中尾ミエの“ナベプロ3人娘”をはじめ、渡辺プロダクションに所属する多くの歌手に曲を書いたが、中でも同プロの看板であったクレージーキャッツとは自ら参加を望んだほどの親しい関係であり、「何が何だかわからないのよ」「シビレ節」「ウンジャラゲ」「アッと驚く為五郎」などを提供、人気番組「シャボン玉ホリデー」や「ニッポン無責任野郎」「クレージー作戦 先手必勝」「日本一のゴリガン男」といった一連のクレージー映画の音楽も手がけた。平成2年に植木等がクレージーキャッツの名曲メドレーである「スーダラ伝説」で再び脚光を浴びた際には、同曲のアレンジを担当している。「ひるのプレゼント」「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」「カリキュラマシーン」「ズームイン!!朝!」「午後は○○おもいッきりテレビ」「ジパングあさ6」などのテレビ番組テーマ曲からアニメソングのスタンダードとなった「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌、JRA競馬ファンファーレまで幅広い分野で作曲活動を行った。軽妙な語り口で「午後は○○おもいッきりテレビ」「ときめき夢サウンド」などにも出演、NHK「紅白歌合戦」では藤山一郎の没後に番組終了時の「蛍の光」の指揮を受け継ぎ、オーバーアクション気味の指揮姿は番組の名物となった。最晩年まで第一線で活躍していたが、18年心不全により急逝した。他のヒット曲に園まり「逢いたくて逢いたくて」、槇みちる「若いってすばらしい」、ザ・ピーナッツ「銀色の道」「愛のフィナーレ」、沢田研二「君をのせて」など。自伝「若いってすばらしい」もある。作曲家の宮川彬良は長男。
- 受賞
- 日本レコード大賞(編曲賞 第5回)〔昭和38年〕「恋のバカンス」,日本レコード大賞(作曲賞 第6回)〔昭和39年〕「ウナ・セラ・ディ東京」ほか,ヤマハ・グランプリ〔昭和43年〕「青空のゆくえ」,東京音楽祭国内大会作曲賞〔昭和48年〕「涙するほど美しく」,東京音楽祭銀賞「海をみつめて」,古関裕而音楽賞(第4回)〔平成12年〕「こんにちは!地球はひとつ」,文化庁長官表彰〔平成14年〕,日本レコード大賞(功労賞 第46回)〔平成16年〕
- 没年月日
- 平成18年 3月21日 (2006年)
- 家族
- 妻=宮川 礼子(卓球選手),長男=宮川 彬良(作曲家),弟=宮川 彪(ドラマー)
- 伝記
- 若いってすばらしい 宮川泰著(発行元 産経新聞出版 ’07発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報